わたしの正義が、一番ややこしい。

 

 

「正義」というと、何かを論じることとか、定義をいうような、堅苦しいイメージがわたしにはありますが、

 

いやいやいやおいで そんなもんじゃなく、本当に些細なことです。

 

 

 

例えば、

 

うちは、わたしが洗濯する物を、みんながお風呂に入ったあとに洗濯機に入れて、朝になったら洗濯が終わっているように、タイマーセットをします。

 

朝になったら、洗濯物は洗い終わっていて、洗濯を干すのも入れるのも、たたむのも主人で、長女が仕事が休みの日は、長女が洗濯物を入れてたたみます。

 

え?わたしですか? わたしはぁ~口笛  まぁ、わたしのことは、おいといて。

 

 

 

今は、冬ですから、日が陰り出すと、途端に気温が下がります。

 

洗濯物を入れるのは、日が陰る前が一番いいと、わたしは思っています。

 

でも、長女は、そういうこと気にしません。

 

もう、日が陰りそうなのに、入れようとしません。

 

わたしは、夕食の支度を始めます。

 

でも、洗濯物が気になります。

 

やっと、長女が洗濯物を入れ出し、わたしは夕食の支度に集中できる。

 

そんな時がありました。

 

 

 

 

 

 

「この世界には、追いかけると逃げて行くし、逃げれば追いかけて来るという法則がある。」

 

理屈ではわかっていたことでしたが、気が付くと、相手に、わたしの思い通りの行動をして欲しいと思っていることなど、日常茶飯事でした。

 

 

 

 

やっと最近になって、

 

「あぁ、この世界は、わたしの思い通りにはならないんだ。」

 

そう、あきらめがつくようになりました。

 

 

 

主人が、副鼻腔炎で、後鼻漏によって咳がでることに、

 

「早く、よくならないかなぁ」

 

そう思うけど、「あぁそうか、わたしの思い通りにはならないんだ。」

 

でも、わたしの思う通りにはなるから、わたしは元気でいて、主人が望むことをしよう。

 

そう思えるようになったら、主人の咳が気にならなくなっていきました。

 

 

 

 

そんなふうに、日常の端々で、思い通りにしようとするわたしが、しゃしゃり出てきたら、

 

「思い通りにはならないんだよ。」

 

そうわたしにいうと、わたしは、とても楽になっていきました。

 

思い通りにならないことを、思い通りにしようとするエネルギーというのは、何倍にも力を出さなければならず、それを継続するのも大変です。

 

でも、「思い通りにならないんだよ。」と、わたしの出しゃばる自我に教えてあげると、

 

なんだか、素直に引き下がってくれるようになりました。

 

 

 

 

今日は、朝から施設にいる母を迎えて、母の内科受診に付き添っていました。

 

家に帰ったのが3時過ぎで、とても眠かったので、4時まで眠ることにしました。

 

今日仕事が休みだった長女が、4時前になったら、バタバタと何かを始めています。

 

洗濯物を入れてました。

 

 

今日だけかもしれませんが、もうそんなこと、どうでもよくなって、

 

乾いてなかったら、部屋干しに変更すればいいし、

 

そもそも、わたしが入れてもいいんですからねニヒヒ

 

 

 

 

わたしは、自分で自分の意識を検証しながら、現実の世界の変化と、自分の意識の変化を、いつも見比べています。

 

「あぁ、こうすると、こうなるのかぁ」って。

 

 

 

今日の母の内科受診の付き添い、何だか楽しかった。

 

母も、「わたしと一日過ごせて、幸せだった。」 そう言ってました。

 

昨年の9月に入所した時は、今年の1月の92歳の誕生日まで生きられないかもって言っていたのに、今日なんか、

 

「あと1年、生きられそうやわ。」

 

そう言ってました。

 

 

 

好きなだけ生きておくれ。