「幸せになっていいよ。」
宇宙から、そう言われているのに、
「あ・・・、わたしはいいです。遠慮しときますぅ。」
そんなことを、わたしはしていたんです。
よく、「お金のブロックがある」とか、
「お金を受け取れる許可をすればいいんですよ。」と、いとも簡単に許可ができるように言われる時がありますが、
無意識レベルに、思考の言い分など、とてもじゃないけど、聞き入られるわけがなかったんです。
無意識レベルは、思考が意識すればするほど
大きくそびえ立ち、ビクともしない。
「幸せになろう」とすればするほど、幸せが遠のいていきます。
「幸せになろう」とする表側のわたしの裏側には、「幸せではない」わたしがいます。
宇宙は、本当のわたしの想いに反応しますから、「幸せではない」わたしの世界が創造されていきます。
何故、そんな望まない世界が創造されるのか。
宇宙は、あるがままに在るだけです。
でも、無意識のわたしが目につくのは、「幸せでない」ことです。
ずっと、ずっと、ずっと、「幸せでない」ことに意識を向けてきましたから、
「幸せである」ことに意識を向けることができませんし、「幸せである」ということが、どういうことかわかりません。
お金がたくさんあることや、大きな家に住むことや、地位や名誉があることなど、目に観えることだけが、わたしを幸せにしてくれるモノだと思い込んでいるからです。
いつも「ない」方向へ意識を向けていますから、「ない」周波数を放出し続けていることになり、還ってきた「ない」周波数が、結果としてわたしの観る世界の現実として現れます。
「じゃあ、「ある」方向へ意識を向けるよ。」
そう言いたいし、そうしたい。
1日くらいは何とかできるかもしれないけれど、時間が経てば、形状記憶のシャツのように、また元に戻ってしまいます。
「じゃあ、どうすればいいんだ!」と、問われたら、
幸せになることを、あきらめてしまえばいいんです。
そう言うと、
開き直って、ふてくされることだと思うかもしれませんが、そうではなく、
幸せに拘らず、
どんな結果が観えるのかに拘らず
成るように成ると、
目の前のことを一生懸命にする。
目の前のことを一生懸命するとは、
適当に終わらせない。
今の自分が、やれるだけのことをやる。
1つのことを、完結させる。
決して、難しいことではありません。
何故なら、それはわたしの日常だから、いつもやっていること。
コーヒーを飲んだら、コップを洗って、棚に片づける。
直ぐにコップを洗うということではなく、
“さて、コップを洗おうか”
そう思ったら、コップを洗う。
“コップを、棚にしまおうか。”
そう思ったら、棚にしまう。
「めんどくさいから、後にしよう。」は、遣わない。
わたしの願いを叶えていけば、もうその時点で「ある」方向、「幸せ」の方向へ向かっています。
わたしの願いを叶えていけば、「幸せになりたい」などと思う事はありません。
何故なら、もう、幸せを感じているからです。
わたしを幸せにすること。
わたしの、「やりたい」の願いを叶えること。
この満足感は、半端ない。