本当は、怒りたくないのに、怒ってしまう。
本当は、自分の気持ちをはっきり言いたいのに、いつも言えない。
本当は、自分が決定すればいいのに、自信がなくていつも人任せ。
変わりたいのに、変われない。
人間関係が上手くいかないと、人間関係が上手い人に変わりたいと思う。
いつも子どもに、叱ってばかりいると、優しいお母さんになれるように変わりたいと思う。
周りの人のように、テキパキと仕事をこなせるように、わたしを変えたいと思う。
でも、変わりたいのに、変われない。
かつてのわたしも、性格を変えたいと思ったことがありました。
それは、「いい人」だと言われたかったからです。
ただ、気づいたことがありました。
わたしの家族は、わたしが職場で働いている姿を見た事がありません。
職場の同僚達は、わたしの家庭での姿を見ていません。
知人は、わたしとランチをしたり、買い物をしたりするわたしを見ていますが、わたしが職場でどんなふうに働いているのか、家庭で、どんなわたしがいるかは知りません。
たとえ家族であっても、わたしが1人でいる時、何をして、どんなことを考えているのか知りません。
24時間、365日のわたしを知っているのは、わたしだけ。
わたし以外の人は、わたしの1日の、どの部分かを観ているだけで、わたしの全てを知っているわけではないんだ。
そう、気づきました。
自我の世界は、二元構造で、必ず比較が存在します。
わたしが、100万円を持っていたら、300万円持っている人をみて、「いいな」と思い、
10万を持っている人をみれば、「わたしより少ないな。」
そう思うように、わたしを基準にして、良い悪いを判断しています。
それと同じように、
自分のことを消極的だと思っている人は、自分では言えないようなことや、やれないようなことを、どんどんこなしていく人をみれば、積極的な人だと捉えます。
自我は、そんな二元性の中で生まれました。
怒られ続ければ、怒られたくないと思います。
怒られ続ければ、愛されていないと思います。
怒られ続ければ、自分の存在を否定したくなります。
怒られ続ければ、生きているのが辛くなります。
それでも生きているから、何とか怒られないようにしたいと思います。
相手の機嫌ばかりを伺うようになり、
愛されるために、相手の言いなりになり、
わたしも役に立てるよと、媚びる態度をとり、
でも、そんなわたしを嫌いになって、この人生を変えたいと思う。
だけど、どうあっても変われない。
それは、自分が観ている世界が、どんな構造で出来上がっているかを知らないからです。
外に観える現実世界が、固定されたモノだと思っているからです。
この世界は、鏡の世界なので、必ず、わたしの意識の世界が映し出されます。
自分のことは観えなくても、他人のことはよく観えます。
意識して観察してみると、
「あの人って、いつもわがままばかり言ってるわよね。」 と、言ってくる人ほど、
「おまえが言うかぁ~」というほど、その人がわがままだったり、
「あの人って、いつもえらそうにしてるわね。」 と、言ってくる人ほど、
「おまえが言うかぁ~」というほど、その人がえらそうにしてる。
あの人のことを「わがまま」を言ってると判断しているのは、その人であって、その人自身が実は、「いつもわたしは、わがままを言わないように我慢しているのに、なんであの人は、我慢できないの?」
と、「わがまま」にフォーカスしてしまっているから気になるわけです。
その人に「いい人」の条件を聞いてみると、
「わがままを言わない人。」と、言うかもしれませんね。
ただ、鏡の法則は、他人を観る為のモノではなく、わたしを知る為にあるので、「わがまま」と言う言葉に引っかかるのであれば、それは結局のところ、「わたしのこと」なんですけどね。
自我を手放すというのは、そういったフォーカスしてしまうこと = 拘り、執着を手放すことです。
「気にならなくなる」ということです。
「あなた」 = 「わたし」 が、宇宙の法則ですから、
わがままを、
「もぉ~、あまえんぼうなんだからぁ~」 と、可愛いねぇ、愛おしいねぇと思えたら、
あなたを赦す = わたしを赦す という宇宙の流れに乗ることができます。
もう、イラつかなくてすむわけです。
変えるのは、わたしじゃないんです。
観える世界を変える。 = わたしの拘りを、執着を手放す。
そして、いつもと違う選択をしていきます。
いつも、自分で選べないなら、自分で選んでみる。
いつも、わがままが言えないなら、わがままを言ってみる。
やれないと思っていることを、やってみる。
きっと、
「こんなに簡単なことだったの?」
そう思います。