「いい人になりたい。」

 

「いい学校に入りたい。」

 

「いい友達に巡り会いたい。」

 

「いい上司になりたい。」

 

「いい看護師になりたい。」

 

「いい家に住みたい。」

 

「いい親になりたい。」

 

「いい子どもでいたい。」

 

 

 

「いい」って、いったい何だったんだろう。

 

 

 

今思うと、「いい」っていうのは、何となく、ぼやぁ~んとしているけれど、

 

世間の人みんなが、「いい」って言ってくれるような、そんなことだったのかなぁ

 

 

 

 

なんだか、周りからどう思われるかで、わたしが決まっていくような生き方をしてたんだなぁって、今更ながらに思います。

 

 

それも仕方がないことです。

 

 

 

 

 

いわしが、群れで泳ぐのは、集まることで、大きな生き物だと思わせて、敵から身を守ったり、

 

群れでいれば、一匹でいるより、食べられる確率が減るとか・・・

 

 

 

わたし達人間も、そうだったんだと思います。

 

食うか食われるかの原始時代を生き抜くうえで、一人でいるより集団でいる方が、食料に恵まれたり助けられたりすることで、生きることや子孫を残す確率をあげることができます。

 

 

今の時代は、食うか食われるかはないけれど、誰からも認められず、誰からも必要とされないのは、とても辛いことです。

 

人の悪口を言うのは、自分を守るために生まれた知恵だなと思っています。

 

 

 

そうやって、大昔から引き継がれてきた、人としての生き方があって、

 

いい人でいれば、仲間外れにされないと、本能的に自分を守ってしまうのだと思います。

 

 

 

ただ、この方向に向ける意識は、宇宙の流れとは真逆になります。

 

上流に向かって、オールを漕いでいるようなものです。

 

だから、とても辛い。苦しい。しんどい。

 

 

 

 

「じゃあ、いい人になるのを止めればいいのね。」

 

理屈で言えばそうなのですが、これがまた、そう簡単にできるもんじゃあございません。

 

 

 

自分を守るのは、命を守るくらい、手放せない。

 

 

「じゃあ、どうすればいいの?」 ですよねぇ~

 

 

 

 

いいんじゃないですか? いい人になりたいと思って。

 

 

宇宙は、正直で、素直な人が大好きです。

 

「わたしは、絶対に、いい人になろうなんて思ってなんかいないから!」

 

と、それが悪いとか、悪くないとか、そんなことをジャッジして、我を張る人より、

 

「あぁ~、そうかもなぁ~。いい人になりたいって、思ってるよなぁ~」

 

そんなふうに、知らなかったことそのものを認めていけば、こころは軽くなるようになっています。

 

 

 

 

いい人になろうと思えば思うほど、

 

「ああでなければならない。こうでなければならない。」と、

 

 

自分を、観えない狭い箱の中に閉じ込めてしまいます。

 

 

「いい人って、どんな人だと思う?」 と、自分に質問してみます。

 

 

こんな人、こんな人と、10コあげることができたとしたら、その条件が揃わないと、いい人にはなれないと思っている自分がいることになります。

 

言い方を変えれば、

 

1つでもその条件が揃わなければ、いい人ではないと、自分で自分を判定します。

 

「わたしって、ダメな人間だ・・・」 みたいに。

 

 

 

 

自分が、いい人になろうとしているかどうかは、鏡を遣えばわかります。

 

自分が、やたら「あの人は、いい人だよね~」とか、

 

「ああいう人には、なりたくないわよね~」とか、

 

人柄を判定するような言葉が気になります。(フォーカス)

 

 

 

気にしている自分に気づいたら、そのことについて判定せずに、

 

そう思っているんだぁと、認めていきます。

 

 

 

瞑想する時と同じで、「考えてはいけない」と思えば思うほど、色々考えてしまうのと同じ。

 

宇宙の流れは、何も問題としていません。

 

ただ、そう在るだけ。

 

 

 

「いい人」を意識しなくなると、

 

楽になりまっせ~グラサン