わたしの世界は、わたしの意識の決定で、進む方向が変わります。
自我の世界に、どっぷり浸かっていた時、
「◯◯に成りたい。」
よく、そんなふうに決定していました。
「看護師になりたい。」
そう望んだ場合は、看護大学なり、専門学校へ行き、国家試験に合格するという、この現実世界で創られた約束事を通過することで、看護師になれます。
何かのビジネスで成功したいと思うなら、その方向へ進むことになります。
先日、大阪に住んでいる次女の部屋を、いつものように掃除をしていたら、小学6年生の時に書いた文集みたいなのが出てきました。
小説家になろうか、看護師になろうかと悩んでいる内容でした(可愛い)
小説家に成りたいけど、生活が安定しない。
看護師は安定してるけど、血を見るのが大の苦手で、どうしたもんかと。
こんな時から、生活のこと考えていたんだ。と、驚きました。
わたしなんかは、親戚に看護師が3人くらいいて、両親が、わたしの性格なら看護師になったらどうかと言われて、その道に進んだだけで、生活がどうとか、白衣の天使になりたいというような理想は、一切なかったですからね。
結局次女は、イラストを描くのが好きになっていって、デザインの専門学校へ行き、ホームページを作成したりする仕事に就いているようです。
このKoRuRiのブログの顔のイラストは、次女に描いてもらったものです。
望むことは、確かに叶えたいと思います。
オリンピックで金メダルを取りたいと、一生懸命に練習を重ねていっても、金メダルをとれるのは1人だけであるように、
必ずしも、その望みの方向へ向かっても、望みが叶わないことなんて、いっぱいあります。
看護師になることも、
小説家になることも、
金メダルをとることも、
それは、その人の人生の一部分です。
わたしは、看護師になり、看護師として働きましたが、今は看護師として働いてはいません。
でも、わたしは、母親であったり、母からすれば娘であったり、夫からすれば妻であったり、職場であれば、一人の職員であったりと、1人で何役もしています。
でも、それがわたしの日常です。
看護師になったから、幸せになれる。というわけでもないし、
小説家になったから、幸せになれる。というわけでもないし、
金メダルをとることが、幸せなのかどうか、わたしにはわかりません。
でも、結局人は、
「ただ、幸せになりたい。」
その方向に、向かっているんだと思うのです。
だけど、我欲が優先する自我の世界では、
自分が得た知識の中から、
自分が満足できそうな方向へと舵をとろうとします。
自分にとって、分相応でなくても、
そう成りたいと望みます。
自我の世界で、無理やり築いた望みは、
行き付くところまで行くと、必ず反転するようになっています。
「ただ、幸せになる」
という世界は、自我の世界を脱出しないと観れない世界だと思いますが、
この決定は、とても広く大きな世界だと思います。
何せ、どんな状況であろうが、「幸せ」なのですから。
何かになれば、幸せに成れるというのは、
とても狭い世界です。
その条件が揃わないと、幸せだと思えないからです。
願いを決定するとき、
「~なりたい。」
は、遣わない方がいいと思います。
「なりたい」は、いつまでも追いかける状態だからです。
言葉は、強い力を持っています。
その言葉通りになってしまいます。
「なりたい」は、今、なっていない時に遣う言葉です。
「なる」は、そうなっている。
あとは、目の前の現実を、ブレることなく、肯定の流れに乗せていきます。
何故なら、肯定 = 幸せ = 宇宙の流れ だからです。