自我を手放していくと、外の世界も自分の世界も、霊性(冷静)に観ることができるようになります。

 

「観る」というと、目で見えるとイメージするかもしれませんが、そうではなく、

 

「観察することができる。」

 

と言った方が、合っています。

 

 

 

 

自我優位の時は、わたしの想いや感情が優先してしまい、

 

その想いや感情で、何もかも観えなくなっていました。

 

 

 

特に感情では、悲しい、辛い、苦しい、怒りの時ですかね。

 

「してやったのに。」という想いも、観えなくしていました。

 

 

 

 

自我の世界は、二元性で、

 

常に、両極端が観える世界です。

 

 

 

わたしが、罪悪感の世界にいれば、優越感を持った人をフォーカスするし、

 

わたしが、自己否定の世界にいれば、自己肯定感の強い人をフォーカスしますから、

 

それはもう、感情が、グルんグルんと回りはじめ、どんどん加速するような状態でした。

 

それを収める方法は、時間だけでした。

 

 

 

 

今は違いますよぉ。

 

感情は、わたしに何かを教えてくれているサインなので、

 

感情が1㎜でも動いたら・・・

 

感情っていうより、胸に「ウッ」と感じたらの方が合ってるかな。

 

そうなった時には、直ぐに、外の世界と、自分の内側の世界を観察しています。

 

 

 

今日もありましたよ。

 

罪悪感があって、自分を責めているという想いが。

 

 

でもこれは、

 

罪悪感を持っていてダメだとか、自分を責めるのは良くないとか、そんな反省をするようなことではなく、

 

「そういう想いを持ってるね。」

 

ということです。

 

 

 

罪悪感も、責めることも、比較によって存在します。

 

そんなわたしはイヤだと思っているのに、そうなっているわたし。

 

 

 

宇宙の法則は、否定すると、絶対に手放せなくなってしまいます。

 

イメージでいうと、

 

 

磁石にくっつく砂鉄のような感じです。

 

意識すればするほど、くっついて離れないみたいな感じ。

 

 

 

意識しなくなると、全くくっつかなくなる。そんなイメージです。

 

 

 

じゃあ、どうやったら意識しなくなるかというと、

 

認めることです。

 

 

ただ、

 

「罪悪感を持ってていいよ。」

 

というのは、否定になります。

 

この言葉の奥には、

 

「罪悪感を持ってるのはいけないけど、もっててもいいよ。」と、罪悪感のことを否定している状態、嫌っている状態だからです。

 

 

「罪悪感をもってるんだよね。」

 

「うん、持ってる。」

 

正直に、素直になれば、言い訳はしなくなります。

 

 

 

人は、どうしても、善悪、白黒つけたがりますが、

 

これが自我の世界の罠です。

 

 

 

善を強く出せば、必ず、悪が同じように強く現れます。

 

白だと言えば、必ず、黒という人が現れます。

 

 

 

 

善を強く出すということは、それだけ、悪を憎んでいる、嫌っていることになります。

 

宇宙は、わたしの想いなど関係ありません。

 

必ず、バランスをとろうとしてきます。

 

偏りに、気づかせようとしてきます。

 

 

 

 

『ゼルダの伝説』ではないですが、

 

どのルートから行っても、辿り着くところは同じです。

 

 

 

 

外の世界は、わたしを観る為に存在しています。

 

さまざまな体験をしながら、学んでいます。

 

 

 

観察以外に、学ぶ方法は無いと思います。