わたしの人生が、100年だとすると、
1年を、100回体験した人生。
1日を、365回×100回体験した人生になります。
その1日を構成しているのは、毎瞬になります。
総括すれば、わたしがどの段階で、この肉体を脱ぐことになったとしても、毎瞬が積み重なった人生に変わりはないということ。
いちいち、毎秒毎秒を意識しているわけではありませんが、
『今、この瞬間』は、観えるようになってきました。
『今、この瞬間』は、
常に、目の前に選択の扉があるイメージです。
この扉の選択基準は、
人間意識が考える、どちらが正しいかとか、どちらが幸せになれるのかで決めていません。
常に、『今、この瞬間』の『本当のわたし』と一致する扉を開けています。
自我は、条件付けが大好きで、
「こうすれば、得する。」
「これを選べば、嫌われる。」
と、自分が選択しているにも関わらず、誰かや何かのせいにして、上手くいかなかった時の言い訳にする準備をしようとします。
言い訳を、してもしなくても、
条件を、付けても付けなくても、
毎瞬の扉を開けているのは、間違いなく『わたし』です。
Aの扉を開ければ、Bの扉を開けた世界を観る事はありません。
でも、どちらを開けても、わたしにとっては正解です。
扉を開けた瞬間、次の体験が始まります。
その体験には、必ずプロセスが存在し、始まりがあるので終わりがあります。
例えば、
「コーヒーを飲みたいなぁ」 と思った瞬間、目の前に2つの扉が現れます。
「飲む」扉と、「飲まない」扉。
「飲みたいと思ってるんだから、「飲む」扉を開ければいいんだよね。」
そうなんですが、わたし達は、一人一人さまざまな体験をしています。
ストレスがあって、イライラしているから飲みたいと思っているのか、
もう20杯も飲んだのに、そう思っているのか、
糖尿病だと診断されているのに、砂糖をスプーンに5杯も入れて飲んでいるのか・・・
それは、その人にしかわからないことです。
「本当は、飲まない方がいいんだけど・・・」
と、『本当のわたし』がそう言っているなら、「飲まない扉」を開けるのが、肯定になります。
そして、「飲まない扉」を開けた瞬間、
「じゃあ、何を飲む?」「飲むのを止める?」
という扉が、目の前に現れます。
「そんなめんどくさいこと、いちいちやりたくないわ。」
そう思いますが、意識していないだけで、こうやって毎瞬選択をしています。
自我を手放していくと、頭の中が静かになって、目の前のことに意識が向くので、毎瞬が観えるようになってきただけのことです。
でも、観えるようになったきたからこそ、丁寧に選択するようになっていきました。
Aの扉の向こうが否定を選択した世界で、Bの扉の向こうが肯定を選択した世界だとしても、扉を開ければ、必ずAとBの扉が現れます。
肯定 → 否定 → 否定 → 肯定 → 否定 と、毎回の選択が定まらない時、観る世界は、肯定 → 否定 → 否定 → 肯定 → 否定 となり、
否定 → 否定 → 否定 と、毎回の選択が否定になれば、観る世界は、否定 → 否定 → 否定 となり、
肯定 → 肯定 → 肯定 と、毎回の選択が肯定になれば、観る世界は、肯定 → 肯定 → 肯定 となっていきます。
最初は、何も知りませんし、毎瞬を意識することなんてできませんでしたから、
肯定 → 否定 → 否定 → 肯定 → 否定 でした。
それを、少しづつ
肯定 → 肯定 → 否定 → 肯定 → 肯定
のように、
この扉の向こうの世界のことに意識を向けるのではなく、
どちらの扉を開けるかという、『今、この瞬間』の選択に意識を向けています。
意識を向けるということは、そちらの方向へ「動く」ということです。
「動く」というと、がむしゃらに動き続けることのようにイメージしてしまうかもしれませんが、
「今は、ゆっくり心と体を休めよう。」 と、決定する方向へ動くことも「動く」です。