12月に入ったころ、今までにない感覚を味わいました。

 

 

胸の中が、軽すぎて、体が浮いてしまうんじゃないだろうかと思うほどの軽さを感じました。

 

余りにも軽すぎて、怖いくらいで、肺や心臓が無くなってしまったんじゃないかと思うほどの軽さでした。

 

 

 

今は、元に戻ってしまいました。

 

 

 

「軽くなった時と、今と、何が違うんだろう。」

 

 

思い返してみると、

 

 

軽くなった時は、鏡の法則を遣いまくっていました。

 

外の世界を観て、1㎜でも情動を感じたら、

 

「何を学べというのだ?」

 

「あぁ、そういうことか。」

 

そんなふうに、とことん学ぼうとしていました。

 

 

 

最近は、学びというより、肯定に意識が向いていました。

 

「そう思ってるんだよね。」

 

「うん、そう思ってる。」

 

そんなふうに、否定を肯定へ反転していました。

 

 

 

 

学びの時は、軽くなり、

 

ただ、肯定へと反転しているだけの時は、もとに戻った。

 

 

 

この体験で、わたしたちスピリットは、

 

「体験をして学ぶ。」

 

が、軸になっているのか・・・・?

 

そう、思いました。

 

 

 

 

 

霊性進化プロセスにおいての『学ぶ』とは、学校の勉強のように、知識をみにつけるとか、テストで高得点を取るとかのことではありません。

 

遊ぶことの方が楽しいし、楽であることは十分承知しながらも、

 

自分で自分を律し、「勉強をする。」という方向へ向かうことができるのは、わたしだけ。

 

 

 

勉強をせずに遊んでいた結果、赤点をとった自分に対して、「まっ、いいや。」と、誤魔化していたけど、本当は、やれるだけやってみたらどうなるのか試してみるという体験を通して、「結果は、後から付いてくるんだ。」と、学ぶ。

 

 

 

わたし達は、個々それぞれが、さまざまな体験を通して学んでいくプロセスの上にいます。

 

 

 

好む、好まない関係なく、色んな環境で育ち、

 

好む、好まない関係なく、人と出会い、

 

好む、好まない関係なく、体験していきます。

 

 

 

 

体験して、

 

「あんな仕事大っ嫌い。」

 

「なんで、あんな人が上司なんだろう。」

 

「面倒なことをしてるのは、わたしばっかり。」

 

 

自我の世界にいれば、そう思いますが、

 

これらの体験は全て、自我の世界の存在を教えてくれる為にあります。

 

 

 

 

色んな体験をしながら、わたしが学んできたのは、

 

「思いやり」 でした。

 

 

 

それは、自我の世界での、自分を守るための思いやりではなく、

 

循環している「思いやり」です。

 

 

 

「してやった。」 でもなく、

 

「させてしまった。」 でもない、

 

Win-Winの関係で、

 

「ただ、そうしたかった。」

 

「ただ、受け取った。」

 

 

 

それは、本当に心地のいい世界です。

 

 

 

『学ぶ』を軸に、意識をもっていって、あの軽さを再び体験することになったとしたら、

 

ビンゴ!ですね音譜

 

只今、実践中。

 

 

 

 

 


上矢印

10月24日に出版された、わたしが書いた本です。

第一章は、息子の発病から亡くなるまで。

第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。

第三章以降は、こころのしくみを書いています。

3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。

来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。