どんなに頭(思考)の中で、
「あれをやろう。」
「これをやってみよう。」
そう思ったところで、行動に移さなければ、現実世界は何も変わりません。
例えば、
今、わたしはこうやってパソコンのキーボードを打って、文字にしています。
頭の中で、「キーボードを打ちなさい。」と、どんなに指示命令をしても、指を動かさない限り、キーボードを打つことはできません。
「キーボードを打ちなさい。」と指示命令をして、指を動かすというこの間には、
「決定」
があります。
「そうする。」という「決定」です。
思ったことと、行動が一致しているときは、自分の心の中に抵抗がなく、流れを感じることができます。
でも、思ったことと、行動が一致していないと、自分の心の中に抵抗が生じ、止まったような状態になります。
例えば、
「勉強をしなくてはいけない。」
「でも、したくない。」
と思った時、机には向かっているかもしれないけれど、集中力はなく、なかなか進みません。
「勉強をしたくない。」のに、行動は、勉強をしようとしています。
思考と行動が一致していないのは、
意識(決定する) と、行動が一致していないからです。
「勉強をしたくない。」と、一時的な楽を選択しようとする自我のいうことを聞かずに、
「勉強をする!」 と、決定してしまえば、行動が一致していきます。
目の前に現れた現実に対して、
「やりたくない。」
「めんどうだ。」
と思うことなど、日常茶飯事でした。
「やりたくない。」 → 「やらない。」 → 現実は動かない。学びもない。
「やりたくない。」 → 「仕方なくやる。」 → やらないよりまし。な程度で、学びはない。
「やりたくない。」 → 「やると決定する。」 → 現実が動く。学ぶ。
この世界のしくみの流れも何も知らなかった頃は、自分の気分次第で次の行動を決めていました。
仕方なくやるなんて、当たり前のようにやっていました。
今は、「やると決定」して、行動に移しています。
そうしないと、現実は動かないとわかったからです。
意識と行動が同じ方向に向くと、現実は動くとわかったからです。
いつか、わたしも、この肉体を脱ぐ時がやってきます。
それまでの時間は有限です。
自我の世界にいたとき、
どういう生き方をすれば後悔しないんだろうか。
どういう生き方をしていたら、生きていることが楽しいと思えるのだろうか。
人は、何のために生きているのか、いつか答えがでるのだろうか。
どんなふうに生きたら、最期の瞬間に、この世界に生まれて良かったと言えるのだろうか。
そんなふうに思っていましたが、
今は、全てこの答えをみつけることができています。
あとは、継続しながら、もっと学びたいと思っています。
この世界に生まれた目的は、
いい人になることでも、
感情をコントロールできる人になることでも、
富を得ることでも、
成功することでもありませんでした。
でも、
人として生まれたことに最高に感謝でき、
感情に振り回されることもなく、
本当の豊かさを知り、
成功ではなく、成幸者になれる。
自我の存在が、本当のわたしを観えなくしているだけでした。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。