「えっ・・・、そんなふうに考えたことがなかった。」
自我に隙間ができた瞬間です。
テレビで、殺人事件が報道されて、容疑者が、
「殺すしかなかった。」 と、
殺人を犯した理由を報道してくれる時があります。
それ以外の選択肢がないというのは、とても不自由な状態です。
「それしかない。」
「これしかできない。」
選択肢が少なければ少ないほど、窮屈さと、不自由さを感じ、
選択肢が多ければ多いほど、豊かさや、ゆとり、自由を感じます。
自我が強ければ強いほど、生きることが辛い、苦しいと思います。
わたしが認識できている世界が、表側のわたしで、
わたしが認識できていない世界が、裏側のわたしです。
この世界には、陰陽一対になろうとするはたらきがあるようで、
必ず、必要なタイミングで、裏側のわたしと出会うことになります。
ところが、この裏側のわたしは、表側のわたしにとっては会いたくない、嫌いな人物となってしまいます。
何故なら、「そうなりたくはないから」と、「そんな人は嫌いだから」 と、選択しなかったわたしがいるからです。
怒られてばかりいる体験をしていれば、怒られたくないと思います。
怒られたくありませんから、怒られずにすむ方法を考えます。
その場から、逃げる方法。
その人に歯向かわないようにする方法。
自分の思っていることは言わない方法。
怒る人が、大っ嫌いになります。
ですから、目の前に怒る人が現れると、その人とは関わらないようにします。
逆に、怒らない人が現れると、その人と親しくなりたいと思います。
最初はいいんです。上手くいきます。
わたしはそもそも、その人がわたしにとっての良い人か、悪い人かの判定は、
怒らない人か、怒る人かで決定します。
誰だって、笑う時もあれば、泣く時もあるし、怒る時もあるし、褒める時もあります。
だけど、フォーカスするのは、そこではなく、怒るか怒らないか。
怒る人だと判定を下したら、その人は、悪い人で、わたしにとって、何をしても赦せない人になります。
わたしがフォーカスする部分というのは、必ずわたしの裏側のわたしです。
表側のわたしが、裏側のわたしを観ているんだと気づけば、裏側のわたしも認めることができて、陰陽一対という安定した状態になり、フォーカスしなくなります。
ですから、その人の色んな部分を観ることができるようになります。
それは、= わたし自身を認めることになり、赦せなかったことが赦せるようになっていきます。
赦せるようになると、わたしが観る、目の前の現実に怒る人が現れなくなります。
というより、Win-Winのスピリットの関係で、もう悪者になって、わたしの目の前に現れる必要がなくなってしまうわけです。
「そんなこと、考えたことなかった。」
そうなんです。
自我は、半分の世界しか観ることができません。
自分だけの世界。
自分の考えていることが、世界の常識で、
自分の考えていることは、みんなが思っていることで、
わたしがそう思うのだから、きっとあの人もそう思っていると思い込むのに、
わたしは、色んなことを考えているけど、目の前の人は何も考えていないように思っています。
「わたしが、わたしが・・・」ですから、相手の立場や、相手の想いなど考える隙間もありません。
この時は、誰が何を言っても、聞く耳を持ちません。(自我の世界では)
でも、
「えっ・・・、そんなこと考えたことがなかった。」 と、相手の立ち位置に立てた時、
自我意識に隙間ができます。
裏側のわたしを赦すことができる、「きっかけ」ができるようなイメージです。
その「きっかけ」を頼りに、
腹が立っているわたしに気づいたら、無理やりにでも、相手の立ち位置に立ってみます。
自我優位であるときは、自分の思い込みや捉え方で、相手の立ち位置に立ってしまうこともありますが、
「もし、わたしがあの人だったら、どうして欲しいと思うんだろう。」
「もし、わたしがあの人だったら・・・」
と、考えてみるのも、自我の特徴を知る一つの方法でもあります。
この世界が100の世界だとすると、
表側のわたしだけで生きていると、50の世界しか観ていないことになります。
そこへ裏側のわたしの世界も認めていくと、50+50で100の世界が観えるようになります。
わたしの選択も、100になり、
わたしの自由度も、100になり、
わたしの豊かさも、100になっていきます。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。