「どう生きたら、一生懸命に生きていると言えるんだろう。」

 

「どう生きたら、後悔しない人生を送れるんだろう。」

 

「今を生きるって、どういうことなんだろう。」

 

 

 

毎日々、時間に急かされるように生きていた頃、そんなことを思う事もありましたが、その疑問さえ、毎日の忙しさに流されて、答えをみつけることは、ありませんでした。

 

 

 

 

「やらなきゃ」と思っていることを、休憩もせずやってみました。

 

確かにその日は、「よく働いたなぁ」と充実感を味わうことはありましたが、じゃあそれを、明日も明後日も続けられるのかというと、うんざりな気持ちになりました。

 

 

 

それならばと、

 

やりたくないことはやらず、やりたいことだけをやってみたらどうなるのか、休みの日に試してみました。

 

休みの日なんだからと、顔を洗っただけでスキンケアもせず、部屋着で過ごす。

 

コーヒーを飲みながら、映画を観て過ごす。

 

やりたくなくても、食事は作らないとだし、食べたら食べたで、後片付けをしなきゃだし・・・

 

 

結局、やりたいことだけをするのも、ちっとも一生懸命生きた気がしなかったし、今を生きた気がしなかったし、何だか後悔するような1日になってしまったという体験があります。

 

 

 

 

 

 

行動することにばかり意識が向いていました。

 

動いていることが、後悔しない人生、一生懸命生きている人生、今を生きている人生だと思っていました。

 

行動は後からで、意識が先でした。

 

 

行き当たりばったりの意識の遣い方ではなく、自分の意識に意識を向けることで、後悔しない人生、一生懸命生きている人生、今を生きている人生が、生きられるようになっていきました。

 

 

 

 

目の前に起きた現実に、想いや感情が反応して、その流れで行動をしていた世界から、

 

目の前に起きた現実を観て、自分の望む方向へ意識の舵をとれるようになっていきました。

 

 

 

 

自分の望む方向というのは、未来のことではありません。

 

今、この瞬間の選択のことです。

 

 

自我の言う、「めんどくさい」「やりたくない」とは全く関係のない方向、『肯定』の選択をしていきます。

 

選択は、頭の中で、「こうしよう」と思うだけではなく、

 

選択 = 行動 になっています。

 

 

 

 

『肯定』の選択とは、『やる』ことだけではなく、『やらない』ことも肯定になることがあります。

 

例えば、

 

「万引きをしよう。」と誘われて、いうことを聞かないと、その人たちからいじめられるから、「やってしまう」のは、否定になり、「わたしは絶対にやらない。」というのが、肯定になります。

 

 

「ああそうか。万引きは悪いことだから、否定ね。」と思うかもしれませんが、その角度から捉えるのではなく、

 

保身から、自分の本当の想いを誤魔化すことが、否定になります。

 

 

人間が思う、悪いこと、良いことに関係なく、

 

自分の本当の想いを誤魔化すことが、否定になります。

 

 

 

ただ、自分の本当の想いが明確になっていないと、自分が自分を誤魔化していることさえわからない場合があります。

 

自分が自分のことを、誤魔化しているかどうかを知るには、『鏡の法則』を遣います。

 

 

わたしは、よく誤魔化されるとか、よく嘘をつかれるとか、思っていたことと違うことをされるとか、

 

わたしは、そんなつもりで言ったわけではないのに、よく誤解されるとか・・・

 

 

そんなふうに、自分が思っていることと、外に観える世界が、チグハグだと感じる場合は、本当のわたしを探すことが先決かもしれません。

 

 

 

 

後悔しない人生、今を生きる人生は、決してがむしゃらに動きまわることではありませんでした。

 

今、この瞬間を生きることが、丁寧に生きることでした。

 

 

 

 

上矢印

10月24日に出版された、わたしが書いた本です。

第一章は、息子の発病から亡くなるまで。

第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。

第三章以降は、こころのしくみを書いています。

3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。

来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。