わたし達は、常に比較をしています。
めんどうだから、もっと楽にできるようにしたい。
時間がかかると効率が悪いから、短時間でできるようにしたい。
日常や、仕事等の、ノルマや環境を始め、経営など、さまざまな場面において、比較をすることで、もっと効率よくしようと考えます。
こころのことで言えば、
誰かの何かと、自分の何かと比べることなど、日常茶飯事です。
わたしは、わたしと24時間365日お付き合いをしていて、どんな生活をしていて、何が好きで、何が嫌いで、どんなことを考えているのかを知っています。
だけど、職場の人にしろ、知人にしろ、ましてや一緒に住んでいる家族であっても、その人のことを観ている時間など、ほんのわずかです。
家族なら、確かに長い時間観ているかもしれませんが、何を考えているのかはわかりません。
でも、思うんです。
「あの人は、お金持ちだから幸せに決まってる。」
「あの家のご主人は、お医者さんだから、お金がたくさんあっていいわねぇ」
「あの人は、テレビにも出て、有名になって、どんなに幸せな生活をしてるんだろう。」
「わたしだけよね。こんなに苦労しているのは。」
「わたしだけよね。こんなに悩んでいるのは。」
「わたしだけよね。幸せになれないのは。」
自分の持っていないモノを、持っている人と比較をして、自分がどれだけ不幸か、もしくは、
わたしは、こんなにも持っているのよと、自分がどれだけ幸せかを、比較することで、
自分の位置を確認しようとします。
比較は、それだけじゃぁありません。
外の世界を観て、何かを観たり、誰かが喋っていたり、テレビやSNSなど、とにかく目に観えたモノ、聞こえたモノに対して、
一瞬にして、わたしが持つ常識、信念、思い込みというものさしを使って、瞬時に、良い、悪いと判断しています。
良いというのは、わたしの常識や信念と一致していること。
悪いというのは、わたしの常識や信念と一致していないことになります。
自我の世界は、
わたし = 正しい = 肯定
あなた = まちがっている = 否定
と、思い込んでいる世界です。
わたしが言っていることが正しいと、お互いが思っていますから、意見が食い違えば、話したくも、顔も見たくない存在になってしまいます。
わたしは、この自我の世界の構造を知るまで、
何処に行っても、自分と気の合わない人は、いるもんだと思っていましたから、気が合わない人と、わざわざ仲良くする必要もなく、職場なら、当たり障りなくやっていくしかないと思っていました。
この世界は、必ず表と裏が存在しています。
陰陽で一対になっています。
表と裏が、ちょうどバランスよくフラット=「ゼロ」になっていると、宇宙の采配が起こり、調和とバランスの現実投下が起こりますが、
どちらかに偏っていると、必ず反対側の世界を観るようになっています。
例えば、
優しいのはいいけど、優しさも、度を超すと、コインが裏返ったように、
しつこいと思われたり、過干渉だと言われたりします。
体も、どちらにも偏らず、バランスが取れた状態が、一番体調が良いと思えるのと同じです。
わたしは、この世界に『鏡の法則』があって、本当に良かったと思っています。
あって良かったというより、そういう構造になっていると言った方がいいですね。
頭の中で、比較が始まると、自我の幻想物語が、どんどん膨らんでいきます。
これを繰り返していれば、自我の世界から脱出することは、不可能なんだとわかりました。
自我の世界は、二元性であり、自我の世界を脱出した世界は、一元性であるらしいからです。
二元性の世界で生きているわたしは、一元性の世界のことがわかりません。
おそらく、『肯定』のみの世界なんだと思います。
そう思うのは、わたしの頭の中で比較が始まった時に、
「◯◯は、悪いと思ってるんだよね。」
「うん、思ってる。」
と、肯定するだけで、もうそのことは考えなくなっていくからです。
自我の世界にどっぷり浸かっていた時は、頭の中がやかましくて、
今わたしが何を思っていたかなど、あっという間に流れていってしまいました。
でも、自我を手放し続けてきたことで、頭の中が静かになり、
今、わたしが何を思っていたかを、直ぐに聞きとることができるようになりました。
わたしが誰かと話しをする内容は、わたしが普段から思っていること以外話すことはできません。
言い換えれば、
思っていない事は、話せないわけです。
わたしが思っていることを話したことで、相手が何かを話してくれる。
相手が話してくれたことに対して、わたしの感情が発動すれば、
それは、必ず裏側のわたしの何かを教えてくれています。
この構造があったから、わたしには嫌いな人が存在したわけです。
スピリット同志、Win-Winの関係が、目には観えませんが存在しています。
わずか、1分の出逢いでも、教えてくれています。
「あの人は、こんな人だ!」と、わたしが言い切ることができるのは、
わたしの裏側を観せてくれているという役割を、その人が果たしてくれているからです。
比較の世界にいる理由があります。
比較を、比較する為に遣うのではなく、
比較に『学ぶ』ことができます。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
3月に書いた原稿で、幼かったわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるよう、成長し続けたいと思っています。