コツを掴むと、必ずそうなる。
例えば、
「こういうふうに作ると、必ずホテルで食べるような目玉焼きができるのよね。」 とか、
「こういうふうに打つと、必ずサーブが入るのよね。」 とかいう、
わたしにしかわからない、コツ。
それは、自分の理想の形を求めて、何度も何度も繰り返して、その中の1回が、理想通りになった時、
「何が上手くいったんだ?」
「今までと、何が違うんだ?」
そんな、 を繰り返して、1/100の確率から、50/100の確率になり、100/100になり、何度やっても、自分の理想通りの形にできるようになったとき、
「よし コツを掴んだぞ」 と、なる感覚。
『鏡の法則』の遣い方も、同じです。
ただ、目に観えないという、やっかいさがあります。
どんなに説明しても、どんなに例題を出しても、
目の前にあるの味を、どんなに説明しても、食べてみないとわからないのと同じように、
目に観えない感覚というのは、自分で体験するほか、方法がありません。
ただ、目に観えるモノと、この目に観えない感覚で共通することは、
「変化がある。」
ということです。
綺麗に焼けなかった目玉焼きが、ツヤツヤの目玉焼きに変化するように、
『鏡の法則』を遣えた時には、感覚の変化を感じることができます。
さっきまで、あんなに嫌いだった人が、普通の人になってしまった。
胸に感じるモヤモヤしていた気持ちが、一瞬のうちに消えてしまった。
「え? え? えっ~ こういうことぉ~」 と、感動と興奮と、喜びと奇跡が入り混じったような感覚を味わった。
はまらなかったピースが、カチッとはまったような感覚を味わった。
あんなに重く感じていた気持ちが、軽くなった。
あんなに拘っていたことが、どうでもよくなった。
そんな、思考では味わえない、感覚に意識を向けてきました。
『鏡の法則』は、外の世界を変えようと、意識を外に向けた瞬間に遣えなくなります。
『鏡の法則』は、意識の世界の法則です。
目に観えた現実を観察して、意識の世界の課題を解いていきます。
『鏡の法則』の遣い方も、段々変化していきます。
大きく感情が動いた時しか遣えなかったのが、
微妙な感情の動きでも遣えるようになって、
思考の中の否定や、ジャッジにも遣えるようになっていきます。
日常の中の、10%しか遣えなかったのが、
30%、50%・・・と、遣えるようになっていきます。
それは、学びを受け取れるということでもあります。
現実を観て、
相手を説得しようとか、納得させようとか、
何故そうなったのかと原因を探そうとしたり、
ああでもない、こうでもないと、相手が思っているかどうかもわからないことを勝手に想像して幻想物語を膨らませていくと、
どんどん『鏡の法則』からは、外れていってしまいます。
あるがまま、観たまま。
『鏡の法則』を遣うには、それだけで十分です。
『鏡の法則』は、自我を手放すには、必須のアイテムです。
10月24日に出版された、わたしが書いた本です。
第一章は、息子の発病から亡くなるまで。
第二章は、亡くなった息子とつながった奇跡。
第三章以降は、こころのしくみを書いています。
半年前に書いた原稿で、まだまだわからないことだらけのわたしがいますが、ご興味のある方は、読んで頂けたらと思います。
来年には、2冊目を出版できるように、成長し続けたいと思っています。