循環していることが、これほど重要なことだとは、思ってもいませんでした。

 

 

 

 

よくよく考えてみれば、この世界は循環することで成り立っています。

 

 

水が蒸発して雲になり、そして雨を降らせ、動植物等々に水を与え、朽ちても土となり養分となり、それがまた次の命を生んでいく。

 

体も、血液が循環することで、生きることができている。

 

 

 

こういうことを、やりたい、作りたい。

 

そういう人がいて、それを欲しいという人がいて、経済が回っていく。

 

 

 

そういう自然の流れが循環するように、人も生きることができれば、きっとそこは楽園のような世界なんだろうと、想いを馳せてしまいます。

 

 

 

 

自我の世界に、どっぷりと浸かってしまうと、自分が優先になっていきます。

 

相手も人であり、色んな想いがあり、

 

わたしが、優しくされたら、嬉しいと思い、

 

「ありがとう」と言われたら、また何かあったら助けてあげたいと思うように、

 

目の前のその人も、そう思ってる。

 

 

 

 

だけど、自我は、そんな思いやりなど関係なく、前に立ちはだかります。

 

 

わたしのことを、何で1番に考えてくれないのか。

 

わたしのいうことを、何できいてくれないのか。

 

あの人にすることを、何でわたしにはしてくれないのか。

 

わたしばっかり大変な思いをして、何で助けてくれないのか。

 

 

何で、何で、何で・・・

 

 

 

その理由は、明確です。

 

 

「わたしが、しないから」です。

 

 

 

 

その『理』がわかってから、「わたしが、したら」どうなるんだろうと、また検証をしてみました。

 

 

 

「わたしばっかり家事をして、夫はのんびりと昼寝をしている。」 

 

腹が立つ!

 

ではなく、

 

そっと、タオルケットをかけて、なるべく音と立てないように、家事をする。

 

 

どんな世界が観えるのか、そんなことはわからないけれど、相手の位置に意識を置いてみる。

 

 

 

別の日に、

 

「お昼ご飯を食べると、眠たくなるわぁ」

 

そう言うと、

 

「寝たらええやん。」

 

そう言いながら、後片付けをしてくれた。

 

 

 

 

相手の位置に、わたしの意識を置いてみることを繰り返すうちに、

 

そうすることが当たり前になっていきました。

 

 

 

 

自我は、自分が損をすることが、大嫌いです。

 

自我の我が強ければ強いほど、自分のことしか考えられなくなります。

 

 

損をしたくなければ、どんどん相手のことを思い、循環させればいいのですが、

 

自我の強さには、そんな『理』は、全く通用しません。

 

 

 

 

循環しないと、どんどん苦しくなっていきます。

 

 

それは、心臓が動かなくなるような苦しさ。

 

それは、呼吸ができなくなるような苦しさ。

 

 

 

 

宇宙の法則は、1㎜もくるいません。

 

 

循環させなければと、『理』も掴んでいないまま行動を起こしても、微動だにしない。

 

何かの結果を求めて、法則を遣おうとしても、微動だにしない。

 

 

 

 

 

「こうなると思ってやったのに、ぜんぜん思うようにならないじゃない。損をしたわ。」

 

 

意識は、隠そうと思っても、絶対に隠せない。バレバレです。

 

 

 

 

わたしが観る世界は、かつてのわたしが放ったエネルギーが還ってきた結果です。

 

文句も、言い訳もせず、受け入れ、ゼロにします。

 

 

 

そして、どんな世界にしたいのか。

 

その方向へ、意識を向け、行動に出ます。

 

 

 

 

宇宙の法則は、絶対に裏切らない。