全ては、法則通りに動いています。
太陽が東から昇り、西に沈む。
日本には、春夏秋冬があります。
イワガニは、満月の前後に卵を産み、彼岸花は、お彼岸の前後に花を咲かせます。
空気の成分は、約78%が窒素で、酸素は21%です。
酸素が18%以下であると、人間は生きていられず、
もし酸素が、100%だったら、
タバコなんて、一生吸えません。
わたし達の体も、恒常性という働きがあって、酸性やアルカリ性、どちらかに傾きすぎると、バランスのとれた元の状態に戻そうとします。
それは、体だけではなく、わたしの意識の世界にも、そのしくみがはたらいています。
そんな、調和とバランスが、この世界を創っているのに、思考を持ったわたし達は、何でもわたしの思う通りにしたいと考えます。
「◯◯をしなければならない。」
「◯◯しかない。」
そんな偏りがあると、
「どちらでも構わないよ。」
という状態に戻そうとします。
わたしが、無意識に拘っていること、フォーカスしていることが、目の前に現れるようになります。
その現れたサインが、感情です。
「体の中のバランスが崩れていますよ」と教えてくれるのは、だるいとか痛いとか、苦しいとか、いつもと違う何かの症状が現れたことで、「病院へ行って調べてもらおう。」となります。
わたしの体であるのに、わたしには自分の体がどうなっているのかわからないのです。
それと同じように、
わたしの意識は、わたしのモノであるのに、何がどうなって、今悩んでいるのか、苦しいと思っているのか、わからないわけです。
感情が現れたら、
「自分のことを、ちゃんと観て(診て)くださいよ。」
というサインです。
わたし達は、人のことはメチャクチャ観察して、ああでもない、こうでもないと、その人の一部分しか観てもいないのに、勝手にその人に装飾をして、わたしの気にいる人にしたり、わたしの嫌いな人にしたりします。
ところが、自分のこととなると、途端に、どうしたらいいのか、なぜこうなったのか等々、さっぱり自分のことが観えなくなってしまいます。
周りのいる人の顔や姿は、前も後ろも観えるのに、わたしはわたしを観ようとしても、手足と、三段腹が観えるくらいで、後ろ姿も、自分の顔も観る事ができません。
わたしが、わたしの容姿を観るには、鏡を使うように、
わたしの無意識の世界も、鏡を遣えば観ることができるようになります。
その鏡となってくれるのが、わたし以外の全てです。
人も、動物も、植物も・・・、とにかくわたしが観える全てのモノが鏡となってくれます。
どうして鏡を遣うのか。
わたし達が鏡を使うのは、自分の容姿を調えるためであるように、意識の世界の鏡を遣うのは、自分の意識の世界を調えていくことでもあります。
心も体と同じで、
体調が良ければ、何かをしようと思いますが、悪ければ動けなくなりますが、心も同じです。
そして、優先されるのは、心の方で、心が動きたくなくなると、体も動かせなくなります。
「心」というと、そこには感情や想いが入り込んでいる世界になってしまうので、ここからは、「心」ではなく、「意識」とします。
意識の世界も、体と同じようにバランスを取ろうとします。
そのバランスを取る方法が、陰陽一対にすることです。
陰陽一対というと難しく思いますし、陰は悪い方で、陽が良い方と思ってしまいますが、そうではなく、どちらも必要なモノです。
光の存在は、闇がなければわかりませんし、闇の存在は、光がなくてはわからないのと同じで、どちらも必要なモノです。
どちらも必要なモノなのに、どちらかを嫌いになり排除しようとすると、必ず抵抗が起こり、苦しいと感じるようになっています。
陰の存在も、陽の存在も認め、受け入れることができれば、一対になりバランスが保たれ、何もなかったような状態、フラットの状態になります。
ですから、わたしが、陰の方に傾いていると、必ず陽の存在が現れ、陽に傾いていると陰が現れるようになっています。
でも、そんな法則が存在することを知らないから、
わたしを苦しめるのは、あの人のせい、会社のせい、社会のせい、政治のせい・・・となって、思う通りにならない世界を生きることになってしまっていたのです。
霊性進化プロセスの最初の到達点は、宇宙の法則を知り、自我の世界の存在を知ることにありました。