気が合わない人。
顔も見たくない人。
話すのもイヤな人。
血の繋がった家族でさえ嫌いな人がいるのに、赤の他人ならなおさら。
人と関わるということは、そういう人とも何とか折り合いをつけて、うまくやっていくこと。
苦手な人、嫌いな人とは、なるべく関わらないようにして、やりすごしていく。
それが、人間関係だと思っていました。
この世に生まれて、色んなことを体験しながら、色んなことを覚えていきますが、その色んなことの中で、わたしにとって『快』は、体験したいけれど、『不快』な体験は、したくないと思い始めます。
怒られたら、「怒られたくない。」と思い、怒られない方法を考えます。
優しくされたら、「もっと優しくされたい。」と思い、優しくされるにはどうしたらいいかを考えます。
『快』は求め、『不快』からは逃げようとします。
そんな体験を繰り返すことで、わたしの信じたことが真実になっていきます。
「わがままを言うと、怒られる。」
「優しい人は、誰からも好かれる。」等々、これがわたしの真実になっていきます。
「わがままを言うと、怒られる。」
「優しい人は、誰からも好かれる。」
このどちらも、自分を守るために生まれました。
「わがままを言うと、怒られる。」⇒「怒られる=嫌われるのはイヤ」
「優しい人は、誰からも好かれる。」⇒「好かれたいから、優しくしよう」
わがままを言っても、怒られないことだってありますし、優しい人が必ずしも好かれるとは限りません。
だけど、そうだと思い込んでしまうことで、無意識のレベルにまで、その信念は入りこんでいきます。
宇宙は、常にバランスを取ろとします。
わたしたちも、宇宙から生まれているので、その法則が作用します。
偏りを無くす。バランスを保つ。
そんなはたらきがあります。
人間意識が考える、良い悪いが判断材料ではありません。
「わがままを言うと、怒られる。」
愛されたい。認めてもらいたい。嫌われたくない。
そんな想いから、ずっとわがままを言ってはいけないと我慢をしてきたのに、そんなわたしの前に必ず、わがままを言う人が現れます。
わがままを言っているのに、誰からも好かれている人が目の前にいると、赦せません。
だってわたしは、愛されたい、認めてもらいたい、嫌われたくないと、ずっと我慢をし続けてきたのですから。
そのために、どんなに疲れていても、手伝ってと言えなかった。
そのために、どんなに助けて欲しいと思っていても、言えなかった。
わたしの信念を覆す人。
それが、わたしの嫌いな人です。
わたしができなかったことをする人。
それが、わたしの嫌いな人です。
わたしが、もっていないモノを持っている人。
それが、わたしの嫌いな人です。
この嫌いな人ほど、わたしが手放すべき信念(自我)を教えてくれている人です。
わたしが気づいていない、もう一人のわたしが、そこにいます。
「あぁ、わたしは、わがままを言いたかったんだ。もっと甘えたかったんだ。」
そう気づいた瞬間、まるで肩の荷が下りたように、心が軽くなります。
素直に甘えることができるようになります。
目の前の大嫌いだった人が、途端に好きになります。
この法則があることを知ったことで、
わたしは、わたしが嫌いだと思う人が現れることを望むようになりました。
何故なら、その人がいなければ、もう一人のわたしを見つけることができないからです。
「嫌い」という感情は強烈なので、感情に引っ張られて、どうしても反転して捉えることができないこともありました。
でも、「絶対に何かを教えてくれている」と、逃げようとするわたしに言い聞かせながら、もう一人のわたしを見つけ続けました。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。ということわざがありますが、嫌いな人の一つ一つに意識を向けると、答えがみつけにくくなっていきます。
「何を教えてくれているのか」を、思考で考え始めると、自我の幻想物語に吸い込まれていくので、最初は単純に捉えます。
「わたしが、その人のことをどう思うか。」
例えば、
「この人は、一言多いんだよ。」
そう思ったとしたら、わたしが、どこかでそれをしています。
素直に受け止めて、
「誰かと話しをするときは、とにかく相手の話しを聴こう。」と、行動に出ます。
自我を数えることができたとして、わたしが100の自我を持っていたとしたら、
100人は、嫌いな人がいる。
スピリットレベルで、必ず現れます。
それは、わたしの課題であり、気づくことができれば、学びになり成長(次元上昇)していくことができます。
自我の世界は強烈で、嫌いな人がいなくなったとしても脱出できるわけではありませんが、
嫌いな人が現れる意味がわかったとき、逃げずに向き合ってきたことで、法則は絶対に裏切らないことを教えてくれました。