「謝ってくれれば、いいだけなのよ!」

 

そう言ってくる相手が、もうこれ以上興奮しないようにと、

 

「申し訳ございませんでした。」

 

と、頭を下げながら謝ったのに、

 

 

「何よ!その謝り方は!謝ったらいいってもんじゃないのよ!」

 

と、火に油を注いだような結果になる。

 

 

 

 

わたしに『怒り』が現れるのは、

 

触って欲しくないところを探られたり、わたしの思うようにしてくれなかったりした時だと思っていました。

 

わたしを怒らせたのは、相手であり、相手が悪いと、そう思っていました。

 

 

 

 

自我と向き合ううち、『怒り』の矛先が向いている方向がわかりました。

 

 

それは、

 

わたし自身でした。

 

 

 

 

優しくしたいと思っているのに、優しくできないわたしがいる。

 

そんな想いは、なかったことにして、

 

「あの人は、あんなひどいことをする人だ。」(だからわたしは、優しくできないんだ。)

 

「あの人は、誰からも嫌われている。」(そんな人だから、優しくしなくていいんだ。)

 

そんな言い訳をして、優しくできないわたしを、世間の目から観えないようにしようとする。

 

 

 

 

「わたしをこんなに傷つけて怒らせたんだから、謝りなさいよ。」

 

そう言って、相手が謝っても、ちっともスッキリしない。ちっとも嬉しくない。

 

いつまでたっても、その人のことが許せない。

 

 

 

 

 

『怒り』は、わたしがわたしを誤魔化した時に現れる。

 

『怒り』は、わたしがわたしに嘘をついた時に現れる。

 

『怒り』は、わたしがわたしに言い訳をした時に現れる。

 

 

 

 

それがわかったわたしは、『怒り』の感情が現れた時、何を誤魔化しているのか、自分と向き合うようになりました。

 

 

 

「やった方がいいな」と思いながら、めんどくさいと、やらずにいたわたしがいた。

 

「本当は、イヤだ」という気持ちを、はっきり言いたかったのに、言えないままにしていた。

 

わたしの判断が間違っていたことでそうなったのに、それを認めたくないわたしがいた。

 

 

 

 

何度も何度も検証しても、結果は同じ。

 

『怒り』の矛先は、言い訳をしたわたしでした。

 

 

 

 

そして、わたしの誤魔化し、言い訳、嘘に気づくことができると、嘘のように『怒り』は収まり、それどころか、相手に怒りを向けていたわたしを、恥ずかしく思いました。

 

「こちらの方こそ、ごめんなさい。」

 

 

 

 

 

ただ、霊性進化は、反省することが目的ではありません。

 

この体験によって、『怒り』が現れた時は、必ず何かを誤魔化している、言い訳をしているわたしがいると認知することができるようになり、感情や想いで、突っ走るわたしがいなくなります。

 

 

これは、『怒り』をコントロールする方法ではありません。

 

 

誤魔化しているわたしがいること、言い訳をしているわたしがいることを、ありのまま受け入れることです。

 

 

わたしは、自我の世界を脱出したいので、脱出する方向へ舵を取ります。

 

 

「受け容れなければならない。」とか、「わたしを認めなければならない。」のではなく、わたしが望む方向は、

 

「ただあるがままに受け入れる」方向に在るからです。

 

 

 

 

 

以前のわたしは、目の前で起こっているトラブルに対して、わたしが関係していないことは、他人事だと思っていました。

 

ところが、そうではありませんでした。

 

 

そのトラブルを観て、必ずわたしは何かを思います。

 

そこには、尽きることがない学びがありました。

 

 

今わたしは、

 

 

 

広辞苑という辞書を与えられたかの如く、学び倒しています。