わたしの人生は、生まれた時に既に決まっていたのか?
ならば、この学校へ行こうと決めていたのに、急に別の学校へ行くことになったのも、既に決まっていたのか?
あの人と、お付き合いが上手くいっていたら、今の人と出逢わなかったのか?
な~んて、卵が先か、ニワトリが先かみたいなことを、考えていた頃がありました。
それは、『魂の羅針盤』の存在を知らなかったこともありますが、それよりも今の自分の生き方に満足していなかったからだろうと思います。
こんな思う通りに生きられない人生を、このまま生きていくのか。
そんな人生が、わたしの一生なのか。
どうあっても、変えることはできないのか。
そんな想いからだったのだろうと思います。
わたしが今世を遣って学びたい学びは、この設定がピッタリなのだろうと思います。
わたしの容姿や、家族や友達、職場等々、
わたしの観える世界に存在する外の世界は、分相応にピッタリの世界なのだろうと思います。
そういうことを言えるのは、今でこそであって、自我優位のわたしでは無理な話しでした。
わたしには、もっと素晴らしい結婚相手がいるはず。
わたしには、もっと素晴らしい職場があるはず。
わたしには、もっと・・・もっと・・・
どんだけ~って、自分自身に言いたいわ
『魂の羅針盤』は、わかるようでわからない位置にありました。
それはまるで、
観たいドラマがあるのに、観えないように遮ってくるネコ(思考)のようでした。
目の前にあるのに観えない。
観えそうで観えない。
「思うように生きられる。」
と聴くと、自我が車のハンドルを握って離そうとしないし、
北海道に行くと決めているのに、沖縄に行くのがわたしの想いだからと、感情と想いで舵を取ろうとするし、
サービスエリアで、一旦頭を冷やそうと進めているのに、猪突猛進で何も見えなくなっているし、
宇宙の法則以上の信頼など存在しないのに、わたしの言うことが一番正しいと言い切るし、
そんな、わたしの中のじゃじゃ馬を、手なずけるのに、随分と時間を要しました。
それでも油断すると、直ぐに暴れ始めます。
今日も、自分の意識を、ずっと眺めていました。
何を考え、何をしようとしているのか、外の世界を観て、どんな反応をしているのか。
それと同時に、肯定の行動を選択し、完結させていました。
理を知らないままだったり、無理やりやっていることは、継続できませんが、
理を知っていれば、継続することが楽しくなります。
いえ、それ以前に、
『魂の羅針盤』は、わたしの人生そのもの。
毎瞬毎瞬が、その方向を決定していきます。