人として生きていて、
何が一番苦痛かと考えた時、
それは、
感情があること。
楽しい、嬉しい、喜び、感動などの、ポジティブな感情は、生きていくうえで、力(エネルギー)になります。
でも、
辛い、苦しい、痛み、悲しい、怒り、不安、恐怖などの、ネガティブな感情は、生きていくことの力を失っていきます。
誰かに言われた一言が、心をえぐられるような気分になり、思い出したくもないのに、その一言を言われた場面を何度も何度も思い出すと涙が溢れてしまう。
「なんで、あんなことを言われなきゃならないんだ。」
「あの一言で、私がどんなに傷ついたか、あの人にはわからない。」
「もう二度と、あの人には会いたくない。」
あの人が、職場にいる存在の人であれば、会いたくないから出勤できなくなり、やがて退職をしてしまう。
生活をしなければならないから、職をみつけないといけないけれど、人間関係で傷つくのが怖くて仕方がない。
自分が、やりたい仕事ではなく、人とあまり接することのない仕事を選んでしまったりする。
感情は、人間関係だけでなく、仕事にも影響します。
自分が好きな仕事も、あまり好きではない仕事も、嫌いな仕事も、そこには仕事に感情がくっついています。
もし人に、ネガティブな感情そのものが無かったとしたら、どんな世界になっていたんでしょうね。
『辛苦のない世界』
自我の世界を脱出すれば、『辛苦のない世界』が存在していました。
自我の世界は、二元性です。
常に、「わたし」と「わたし以外」という相反する存在が現れます。
優しくされることに執着していると、優しくされない世界が創造される。
怒られたくないと思っていると、怒られる世界が創造される。
楽になりたいと思っていると、苦痛の世界が創造される。
ネガティブな感情が現れるのは、偏りを教えてくれています。
宇宙の法則は、偏りを無くそうとはたらきだします。
偏りは、いつか淘汰されてしまいます。
それは、体と同じです。
それは、自然と同じです。
必ず、バランスを取ろうとします。
陰陽一対になると、偏りがなくなります。
それは、引力の法則と同じように、その法則が存在しているだけです。
ネガティブな感情(=重い周波数)は、「偏りがありますよ」と教えてくれています。
その偏りを、陰陽一対にできるのは、わたしだけです。
何が偏りを創っているのかは、『鏡の法則』が教えてくれます。
このしくみを知ってしまえば、
ネガティブな感情の存在を知ってしまえば、
感情を恐れることはなくなります。
最初は、それがわかっていても、感情の方が優位で、
『鏡の法則』もなかなか遣うことができませんが、
それも継続すれば、いつの間にかできるようになっています。
自我が存在することで、わたしが正しいと思い込んでいます。
「わたしが正しいのだから、あなたはそれを認めなさいよ。」と、自我は、妥協しません。
わたしの裏側にいるわたしと闘っているのですから、
いつまでたっても、その闘いは終わらない。
鏡に向かって
ひとり相撲をしているようなものです。
自我の世界は、そんな二元性の世界でした。
人間だから感情を持っているのは当たり前で、
感情をコントロールできる人が大人でいい人で、
感情をコントロールできない人は子どもだ。
という世界は、自我の世界の中だけだったのです。
感情が現れる。→ 偏りのサインだ。 → 課題を解く。 → ネガティブな感情は消滅
炙り出される感情を、ひとつひとつ丁寧に、完全に消火していく。
花火のように、胸にドン💥ドン💥と、響きわたるような感情が炙り出されますが、いつか花火は終了してしまいます。
自我の世界を脱出すると、ネガティブな感情は消滅してしまいます。
そんな世界が、わたしの真裏に存在していました。
『辛苦のない世界』は、不安、恐怖、の無い世界です。
それは、自我の世界では、信じられないほど、『楽』な世界です。
『魂の羅針盤』のこの光の道の上は、『快』の世界です。
課題を無視しないことです。
課題を放置しないことです。
わたし達は、守られています。
『鏡の法則』を最初から上手く遣おうとしなくても、少しずつ遣えるように誘導してくれます。
課題の解が、なかなか見つけられなくても、その一生懸命さは、必ず通じています。
霊性進化プロセスは、100点満点を評価にする世界ではありませんでした。
わからなくても、わかるようになるし、
わからないことを責められる世界ではありませんでした。
「わたしが、どうするか。」
そこをいつも観られているように思います。