スピリチュアルという言葉を知り、興味を持つようになって、
たくさんの本を読むようになって、
「何でも願いが叶うなんて、そんな世界があるなんて、凄い!」
そう思いました。
「目覚める」
そんな言葉を知って、
「目覚めたら、きっと私の思う通りに生きられるんだ。」
そんな、意味のわからない解釈をして、
「目覚めたい。」
そう思いました。
わたしにとって、都合の良いことが起きると、
「目覚めるって、こういうこと?」
そう思いました。
わたしにとって、都合の悪いことが起きると、
見事に、誰かのせいにしてました。
わたしにとっての「目覚め」とは、
「わたしの思う通りの世界になること。」
でした。
自我の世界にいても、
わたしにとって都合の良いことは、起こります。
何かを決めた日の朝に、
虹でも見ようものなら、
「きっと、わたしを祝福してくれてるんだわ。」
そんなふうに、
世界中で、この虹を見ているのは、わたしだけしかいないような、
メルヘンチックな幻想物語を創造するのは、
わたしを、特別な人として、あげ祭るには十分な材料でした。
そんな、フワッフワなわたしが、
『魂の羅針盤』を、見つけることができたのですから、
何が、どう転んで、そうなるのかなど、到底わからない世界です。
わたしにとっての良いことも、悪いことも、
どちらも必要なことでした。
それどころか、わたしの体験する日常全てが、
わたしが学ぶ為に設定されたモノでした。
人間意識のわたしは、
見えることに意識が向いてしまいます。
「あの人が、こんなことをした。」
「あの人が、あんなことを言った。」
その一つ一つの言動や行動、見せる姿に意味を探そうとします。
『鏡の法則』は、
パントマイムのように、ヒントを観せてくれています。
ヒントは、必ず、
何度も頭に浮かぶこと、
何度も頭の中で聞こえる言葉、
気になって仕方のないこと。
の中にあります。
そのパントマイムを観て、
責められているように思うなら、何か自分自身を誤魔化していないか、向き合うことから逃げていないかを確認してみる。
罪悪感を感じるなら、本当のわたしに嘘をついていないかを確認してみる。
しつこいと思うなら、何かに執着していないかを確認してみる。
捉え方は、100人いれば100通りですが、
振り分けていけば、
罪悪感、自己否定、執着、依存、無価値観、等々『否定』にグループ分けできます。
地に足が着いていない時のわたしは、ただ、「待っている」状態でした。
地に足が着いた今のわたしは、常に能動的です。
自我の世界にいれば、眠りの状態です。
最低限、自我の世界を脱出しない限り、目覚めはないと、わたしは思っています。
何故なら、自我の世界にいる限り、宇宙摂理の流れに乗れないからです。