誰かに、「あなたは、凄いね。」と、言われる。
誰かに、「あなたは、ここに絶対に必要な人。」と、言われる。
誰かに、「ここまでやれる人は、あなたしかいないわ。」と、言われる。
今日、やろうと決めた片づけを、やり終えたことの達成感。
1つの目標に向かって時間はかかったけれど、達成できた満足感。
わたしには無理だと思っていたことを、一から学び直して、できた時の達成感。
わたしが、わたしを認める。
「よくやったね。」と、誰も言ってくれなくても、わたしがわたしに言う。
「頑張ったね。」と、誰も言ってくれなくても、わたしがわたしに言う。
こういうことが、『自己肯定』だと思っていました。
確かに、何かをやり遂げたり、できないと思っていたことができたり、誰かに褒められたりすると、満足感を得られることができます。
ただ、その一連の出来事が終わると、再び何かを始めないと、再び目標を作らないと、再び褒めてもらえないと、この満足感は、消失してしまうのだと気づきました。
ならば、『自己肯定』とは、いったい何なのか。
な~んて、難しいことは考えたことがありませんでしたが、
色んな検証を積み重ねていくうちに、今のわたしは、常に、何をしていても満足感を感じている状態になり、この感覚が、『自己肯定感』であり、『魂の羅針盤』に乗っているというサインだと気づくようになりました。
頭の中で、
「あっ、お茶碗洗わなきゃ。」
そう思ったのに、
「まっ、いっか。後でいいや。」
「あっ、この仕事、明後日までだった。そろそろやらなきゃ。」
そう思ったのに、
「まっ、いっか。今日でなくても、明日やればなんとかなる。」
こういうふうに、一発目に頭の中で思ったことを、次のわたしが拒否をするというわたしに気づきました。
「だったら、この一発目を、必ずやり通したら、いったいどうなるんだろう。」
そう思ったのです。
一発目から、次のわたしが拒否をするまでの時間は、とても早く、最初は、見過ごしてしまうこともありました。
それでも諦めずに、一発目のわたしが言う通りに行動してみました。
ただ、これには注意が必要で、
何でも一発目に思ったことを行動に移したわけではありません。
例えば、
「このバック、10万円するけど、買いたいから買う。」
「あの人に、腹が立ったから、怒ってやる。」 等々、
外に向かった想いに対しては、一旦ストップです。
「わたしのこと。」に、意識を向けます。
やろうと思ったのに、やらないわたし。
それを止めて、
やろうと思ったら、そのまま行動をする。
それを繰り返すうちに、胸の中は、満足感で満ち溢れるようになっていきました。
色々な体験をしていくなかで、
霊性進化プロセスそのものにも、構造があることに気づきました。
気づいて学んだあと、その学んだことを行動に移していきます。
例えで言うと、
科学の授業を先生に教えてもらって、それを実際に実験してみる。
最初は、上手くいかないけど、失敗をしながら、何がいけなかったのか、何故上手くいったのか等々を考えながら、やがて100%、その実験ができるようになる。
とても調子よく、身についたなと思ってルンルンでいると、
次の課題がやってきます。
さっきまでやっていた実験方法では、解けない課題です。
「どうやったら、何に気づけば、この課題が解けるんだろう。」
そんな、試行錯誤の、もがく時がやってきます。
ああでもない、こうでもない。
そのうち、ヒントがやってきます。
それは、直接聴こえる閃きであったり、何気なく広げた本の中にあったり、誰かが話した何気ない言葉の中にあったりします。
「え? もしかして・・・それ?」
とにかく、そのヒントを頼りに、実験(検証)を開始します。
この時感じる感覚は、ワクワクします。面白そうだと思います。やってみたいと思います。
わたしの体験上、この感覚ではない時に検証しても、面白くないので継続することができませんでした。
このパターンが繰り返されていきます。
ただ、このパターンの繰り返しが起こって、ある程度までくると、また別のパターンがやってきます。(ここでは、長くなるのでここまでとします。)
わたしの日常を遣って、満足感を得るようになって、それからも課題はやってきました。
課題は、次元上昇レベルに応じていきます。
必ず、今のわたしにはわからないけど、もう少し成長したわたしならわかる。という課題です。
やってきたのは、
『わたしを認める。受け入れる。赦すこと』 でした。
どうなることが、わたしを認め、受け入れ、赦すことになるのか。
その解を得るまでに、再びプロセスが開始されます。
わたしはただひたすら、
わたしが観る外の世界と、わたしの考えていること、思っていることを照らし合わせていきます。
気が付いたのは、『否定・拒否』でした。
誰かの話しを聴きながら、
「それは、違うでしょ。」
と思うわたしがいる。
誰かの言動や行動に、腹を立てるわたしがいる。
そういうわたしに気づくことができるタイミングで、
「外に観える世界は、わたしそのもの」であることがわかっていきました。
誰かを否定する。
何かを拒否する。
誰かという、わたし。
何かという、わたしを否定している限り、拒否している限り、
わたしは、わたしを認めることができず、
わたしは、わたしを受け入れることができず、
わたしは、わたしを赦すことができていないことに気づきました。
『肯定』する。は、
わたし自身を認める、受け入れる、赦せることだと気づきました。
『自己肯定』は、外の世界から与えられるモノではなく、
わたしが創るモノだったのです。