流しそうめんのそうめんが、目の前を流れていくのだから、それを取って味わえばいいのに、ただその流れを見ているだけで、

 

心の中では、

 

「あ~あ、今日もそうめんを食べることができなかった。明日は、食べれるように頑張ろう。」

 

そう思いながら、

 

明日も同じように、そうめんを取ろうとしない。

 

 

「私が取ってしまうと、あとの人が食べられなくなるかも。」

「もしかすると、美味しくないかも。」

「そうめんでお腹いっぱいになったら、夕食が食べれなくなるかも。」

「そうめんだけでなく、何か他にも食べるものがあればいいのに。」

 

 

 

そんなふうに、いつも、

 

前(未来)や後ろ(過去)ばかりを見て、目の前にある、流しそうめんの楽しさを味わっていなかったように思います。

 

 

 

 

 

楽しいことは、あっという間に過ぎて、辛いことなど悩むことがあると、外の時間は流れていくのに、自分の時間だけは止まっているように感じます。

 

それは、悩みが解決しないという時間の中にいるからかもしれません。

 

 

10年前に亡くなった息子が、大学病院に入院していたのが、ちょうど9月~12月で、外の世界はクリスマスやお正月のことで盛り上がっているのに、私の時間だけは止まっているように感じた体験をしました。

 

 

息子の病気が良くなって、退院へ向かっていたのなら、外の世界と同じように私の時間も刻まれていたのでしょうが、治らないという最悪の状況へと向かっていく時間は、未来へ向かっていく時間というより、後ずさりしているような、確かに時間は進んでいるのに、まったく時計が動かないようなそんな体験でした。

 

 

 

今、私は、同じような時間の体験をしているのですが、心の中は10年前とは真逆の状態です。

 

 

 

 

アイロンをかけるという、日常生活の中の一コマがあります。

 

 

 

「アイロンをかけた方がいいよな~」

 

と、思いながら、

 

「めんどくさいよな~」

 

と思って、そのままアイロンをかけない選択と、アイロンをかけるという選択があります。

 

 

 

以前の私はその選択を、ただ自分の気分でしていたわけですし、ただの日常であり、アイロンをかけるかかけないかの話しで、それが私の人生になんら影響を及ぼすものでもないと思っていたわけです。

 

 

ところが、この「めんどくさいから、アイロンをかけないでおこう。」と思う意識の中には、

 

やった方がいいと思っているのにやらない。

→ 自分の望みを叶えていない。

 

アイロンなんかかけなくていいや。

→ 自分のことなどどうでもいい。どうみられてもかまわない。どうせわたしなんか・・・。

 

という方向に意識は向き、その結果、アイロンをかけないという方向へ動いたことになります。

 

 

 

たかがアイロンと思うでしょうが、実はアイロンだけじゃなく、自分の日常生活の中で、たくさんこの選択をしている可能性があります。

 

当然、自分の望みを叶えてあげないという創造をし、自分を大切にしない生き方を創造していく方向に向いていきます。

 

 

 

 

私は、自分の願いを叶える生き方を創造したいですし、自分を大切にする生き方を創造したいので、毎瞬の選択に手を抜かなくなりました。

 

 

家で過ごしている私も、仕事をしている私も、旅行に行っている私も、全てが私の日常です。

 

いつもと違うことを体験した時、例えば旅行に行ったとか、そういう時間を非日常と言いますが、私にとってはどんな体験をしていても、それは私の日常です。

 

 

 

こんなふうに、毎瞬を意識して選択していると、外の世界は凄いスピードで時間が過ぎていきますが、私の中では、

 

じっくりと、丁寧に、生きている私がいます。

 

 

それは、外に観える世界によって動けなくなっている私ではなく、

 

今の私の分相応ですが、

 

最大限に私を活かしている生き方になっています。