思考は、肉体を持った私達には必要なモノです。
思考があるから、考えたり、想像することができます。
思考そのものは、中立の立場にいますが、私が何に意識をフォーカスさせるかで、偏りを創り出すことも、調和を創り出すことも可能です。
自我優位で思考を使えば、果てしなく自我は拡大していきますし、霊性進化に意識を向けていれば、進化することを助けてくれます。
考えてしまうことも、想像してしまうことも、この肉体を持つ人間である限り当たり前のことで、抵抗する必要など全くないことに気づきだすと、思考は友達になってくれるようです。
随分前の私は、イラストのような場面に出くわすと、途端に自分のことを笑われているのだろうかと考えてしまい、朝からの自分の行動や言動を、フラシュバックのように思い出し、
「そんなに笑われるようなことをしたのかしら?」
と、もうこの時点で、知人達が笑っているのは私のことだと断定し、ああでもないこうでもないと思考が頭の中を回転していました。
「え?なになに?そんなに面白いことがあったの?」
と、話しの中に入っていくなんて、怖くてできませんでした。
それで、悶々とするんです。
家に帰っても、ずっとその場面が離れなくて、気になって、その人たちと会うのがイヤになってしまう。
これが、自我優位の思考で、ありもしない、誰も思ってもいないのに、思っているのは自分であることも気づかずに、どんどんと自我が思考によって膨らんでいった状態です。
笑っていた二人は、昨日のテレビのお笑い番組の話しをしていただけ。
そんなことは、よくある話しです。
霊性進化としては、自分の感情が動いたことで、課題投下されたとわかります。
こういう場面にでくわし、「私のことを笑っているのかしら?」と思った瞬間に、
「私は何故、そんなふうに思うんだ?」
と、自分に質問すればいいわけです。
笑われていると思った時、どんな感覚を胸のハートが感じているのかを解読していきます。
バカにされている。
見下されている。
仲間外れにされている。等々
そんなふうに読み解いたら、2つの方向から観てみます。
まずは、自分が誰かを、バカにしたり見下したり、仲間外れにしていないかを観察します。
大抵は、思い当たることがあります。
もう一つは、自分自身のことです。
自分が自分のことをバカにしたり見下していたりして、本当の自分のことを無視していないかを観察します。
これがビンゴであると、申し訳なかったという反省レベルではなく、自分がバカにしていた相手に対して、心の奥底から申し訳なかったと、どんなに辛い思いをさせてしまっていたのかと涙が出るほどの想いが込み上げてきます。
「優しくしてあげなければ」
ではなく、
「今すぐそばに行って、今までの行為に対して謝りたい。その上で、できれば、これから仲良くして頂きたい。例え、そうならなくても、謝りに行こう。」
と、心底思います。
ただ、ガイドは観ています。
心底思って終わりか、それとも実行に移すか。
実行に移せば、宇宙の采配のもと、タイムラインは変更されます。
自我を手放していくと、思考は自我にくっつく必要がなくなってしまいます。
ですから、観たままを教えてくれるようになります。
霊性進化しようと、そちらに意識が向いていると、その意識の方に思考はくっついてくれるので、気づきや学びが、どんどん早くなっていきます。
考えないでおこうと思うほど考えてしまいますし、自我を毛嫌いすればするほどくっついてきます。
そんな体験を繰り返してきて思います。
私にとって都合が良いか悪いかなど、全くこの世界では関係のないことで、自我も思考もただ在るモノ。
私はそれを使わせてもらってる。
凄い世界だと思います。