観察することに意識を向けないでいると、途端に無知になってしまうことに気づいてしまいました。
改めて、無知とは何かを調べようとしたら、『無知の知』がヒットしました。
『哲学の父とも呼ばれるソクラテスは、「無知の知」という考え方を基本としました。文字通りの意味は「無知であることを知っていること」が重要であるということです。要するに「自分がいかにわかっていないかを自覚せよ」ということです。
言い換えると「知らないこと」よりも「知らないことを知らないこと」の方が罪深いということです。「自分がいかにわかっていないかを自覚すること」・・・。これが物事を自分の頭で考えるための本当の第一歩です。』(ネット検索:細谷 功氏)
観察は、気づきをもたらします。
それは、この物質世界でも、意識の世界でも、とても重要なことです。
カマキリが卵を、高い所に産み付けた年は、雪が沢山降ると言われています。
雪に埋もれてしまうと、孵化できないのかもしれません。
でも、誰かが気づいたんですよね。
昨年は、もっと下の方に産み付けていたのに、今年は高い所にあるぞと。
そんな気づきが、雪との関係まで繋がっていったんでしょうね。
それを知ることで人間は、大雪に備えることができます。
じゃあそのことを、全ての人が気づくかと言えば、そうではないわけです。
観える世界でもそうなのに・・・
それ以上にやっかいなのは、意識の世界の気づきです。
外の世界に映る、自分の言葉や態度、行動を常に意識して、何を観察させ、そこから何を気づかせ、学びへと繋げようとしているのか、
それを一瞬にして捉えることができるようになるには、どれだけの訓練が必要なのでしょうか。そもそも、訓練ができるということは、少しでも捉えることができるということです。
ソクラテスではありませんが、自分が無知であることを知っていないと、尚更それは難しくなります。
イメージでいうと、
ひやむぎの中に、1本か2本くらいの赤い麺が入っているのをご存知ですか?
私は、小さい頃、よく兄と取り合いしていました。
そのひやむぎを、流しそうめんのように流して、その赤い麺が流れてきたら、さっと掴み取る。
そんな感じなんです。どんなかんじやねん
自分が無知であることを知っていれば、流れてくるひやむぎを、ずっと観察し続けることで赤い麺をみつけることができるのでしょうが、
「ケッ ただのひやむぎでしょ?」
なんて思っていたら、絶対に掴むことはできない。
そんな感じなんです。だから、どんなかんじやねん。
課題が、難しすぎるやんけ
そう言いたいけれど、
課題は、いつもちょこっと上にあります。
ということは、試行錯誤するけれど、そこへ行けるっちゅうことですかいな