確かに、好き嫌いがなくて、何でも食べれる方が、食の広がりは体験できます。

 

かと言って、食べたくもない物を、無理やり食べさせられるというのは、食そのものにも影響を与えてしまうかもしれません。

 

子どもがピーマンを嫌うのは、理に適っています。

 

 

 

今でこそ、安心安全な物を食べることができますが、大昔はそうではなかったわけです。

 

私たちが持つ五感を使って、これは食べても良い物なのか悪い物なのかを、命がけで開発していったんだと思います。

 

そういう意味で、ピーマンの苦さというのは、「毒かも?」と舌が感じ、ペッペッと吐き出すようになっているのです。

 

大人になって食べれるようになるのは、ピーマンは毒ではない栄養がある野菜だと認識していくことで食べれるようになっていくそうです。

 

 

 

他には、酸っぱい味は、腐っていると判断し、甘い味は、栄養があると舌が判断します。

 

見た目と匂いと味や、食感や触った感覚で、大昔の方は、食べれるかどうかを選んでいたんだと思うと、今の私達よりずっと感覚が研ぎ澄まされていたんだろうなと思わずにはいられません。

 

 

 

あ・・・、今日は別に食べ物のお話しではなく、意識の好き嫌いのお話し。

 

 

 

 

ネガティブな考え方は止めて、ポジティブに考えましょうよと言われた時、

 

「そうね、ポジティブに考えなきゃぁね。」

 

と、落ち込んでいる自分を励ます手段として、ポジティブという言葉を使うことがあります。

 

 

 

でもそこには、ネガティブは悪いコト、ダメなコトと当たり前のように思い込んでいるわけです。

 

 

霊性進化しようとする時、この判定は、

 

 

大きな壁となってしまいます。

 

 

要するに、

 

 

 

 

偏りを創ってしまっている状態。

 

 

自我優位の場合、「〇〇しか方法がない。」とか、「〇〇以外には考えられない。」と、たった一つしか答えや方法がないように思考が働き、諦めてしまうとか、イヤになってしまうとか、嫌いになってしまったりします。

 

 

じゃあ、他にアイデアが浮かんだり、閃いたりするのか?と言われると、自我の世界にいるのであれば、難しいかもしれませんが、その場を自我の世界から外してしまえば、柔軟なアイデアや閃きがやってきます。

 

 

 

 

簡単に言えば、

 

ピーマンを食べたくないと言っている子供に、何としてでもピーマンそのものを食べさせようとするのが、自我の世界で、

 

 

野菜が嫌いな子どもに対して、

 

 

 

自分自身が料理の腕を磨いて、子どもが大好きな食べ物にしてしまう。

 

凝り固まった考えから、柔軟性のある広がりのある考えに変えてしまう。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

 

「あなたは、頑固ねぇ」と、相手に思う時、自分も同じだけ頑固です。

 

どちらも我を張っているのは、お互いが鏡となっています。

 

相手が我を張ることを止めるのを待っているのも一つの方法かもしれませんが、それは相手が妥協したのであり、後味の悪い感覚が残ります。

 

 

 

この世のしくみは、本当に上手くできていて、

 

自分がどんな我を張っているのか気づいた瞬間に、誰にとっても調和のとれたアイデアや閃き、行動ができる世界になります。

 

つい1分前までは、お互いがイヤな雰囲気で、大っ嫌いな存在だったにも関わらず、自我に気づいた瞬間に、

 

 

 

 

その場にあった自我は何処かへ消え失せてしまうのです。

 

 

 

 

わざわざ、子どもが嫌いなピーマンを買いに行く必要はないけれど、ご近所の方が、自分の畑で作ったピーマンを沢山できたからと頂いた時、

 

「うちは、子どもが嫌いなんでいりませんわ。」 と、断るのか、

 

ご好意を無にできないわと、ピーマンを頂くことにしたけれど、どうせ子どもが嫌がって食べないだろうと思いながらテーブルに出し、結局子どもと喧嘩になり、ピーマンを持ってきたご近所の方に対して、余計なことをしてくれたもんだと、腹を立てるのか、

 

それとも、子どもの大好きな食べ物を使って、ピーマンを活かせるレシピはないかと探したり、子どもではなく、夫のお酒のおつまみになるようなレシピはないかと探して実際に作ってみて、子どもも「今は食べれないけど、大人になったら食べてみたい。」と思うような夕食のひと時を過ごすことにするのか。

 

 

 

 

今回は、ピーマンのお話しでしたが、

 

嫌いなコトをわざわざやりに行く必要はないと思いますが、目の前に来た嫌いなコトや苦手なコト、やれるのにめんどくさいとやらないことは、やりたいことに還ることができるしくみがあります。

 

 

その場の自我に気づいて手放せば、偏っていた世界が一旦フラットになります。

 

そこから、自分の望む世界を創造していけばいいわけです。

 

 

 

ただ、この望む世界とは、物質のことではありません。

 

どんな場にしたいのか。

 

 

 

子どもが、ピーマンが嫌いだと泣きわめく場を創造したいのか、

 

子どもが食べれるピーマン料理を作れるように、自分の料理の腕を磨くという創造をするのか、

 

それとも、子どもが今、ピーマンが食べれないなら他の食べ物で補い、いつか大人になってピーマンの苦さが美味しさに変わるときがくればいいなと、大人のレシピにしてみるのか・・・

 

 

 

 

自我に気づき、手放すことができると、驚くほど閃きやアイデアが浮かんで、行動せずにはいられなくなります。

 

嫌いなコトが、好きになり、

めんどうなコトが、やりたいことになるという、このしくみが私は大好きです。