「こころは、どこにあるのか?」

 

「わたしは、どこにいるのか?」

 

 

 

最近購入した本に、書かれていました。

 

 

そんなこと、考えもしませんでした。

 

 

 

こころは、あるし、わたしは、ここにいる。

 

そう思っていました。と言うよりは、その質問を自分にしたことがありませんから、そう問われて、考えてしまいました。

 

 

 

こころは、ハートの部分?

 

確かに、ハートの部分で感覚を掴むけど、そこにあるのは、心臓と肺と太い血管。

 

 

 

わたしは、どこにいる?

 

意識のわたし? それとも、思考のわたし?

 

どちらも、どこにいるんだ?

 

 

 

 

その本に書かれていたのは、

 

『言葉の中にしかいない。』

 

でした。

 

 

 

 

 

それを読んだ時、わたしは、空っぽなんだと言うことに気づきました。

 

 

 

 

外の世界を観て、ああだ、こうだと、言葉にした瞬間に、私は存在する。

 

 

 

じゃあ、何故、わたしを空っぽにする必要があったのか?

 

 

 

空っぽにすれば、無限の世界を創造することができるから。

 

私だけの世界を創造することができるから。

 

 

 

 

私だけの、オリジナルな世界を創造できる。

 

 

 

 

 

 

4月初めに、東京にいる甥っ子から、29日の金曜日に、こちらに帰るからと連絡が入りました。

 

甥っ子は、よく喋るようになった、字や数字も書けるようになった、7月に4歳になる息子を、私たちに会わせたくて仕方がないんです。

 

特に、私の母は、そのひ孫をとても可愛がるので会わせたくて仕方がない。

 

4月29日は、甥っ子夫婦の結婚記念日だから、賢島で豪華なフルコースを食べてから、夕方こちらに寄ると言うのです。

 

 

 

うちの家に来ることを、私は、もちろん了解しました。

ところが、本当の私は、来てほしくないと思っています。

 

 

29日は、大雨になるらしいし、そんな中、駅まで迎えに行かなければいけないのか。

翌日の30日には、実家(兄夫婦)から車を借りて朝からうちに来るのだから、わざわざ29日に来なくてもいいのに。

 

こんな気持ちが湧き上がってきたんです。

 

自我が発動しているなと気づきましたが、何を伝えようとしているのかがわかりません。

おまけに、29日になってしまいました。

もうすぐ、甥っ子達はやってきます。

 

頼むから、教えてよ!

 

 

 

そうこうしているうちに、この数日前から、やけに思い出す記憶がありました。

 

それは、兄のことでした。

 

 

兄は、中学の頃から、自分で勉強スケジュールを作り、その通りに実行していました。

 

そのスケジュールには、休憩時間ももちろん入っているのですが、その休憩時間のことです。

 

ある日曜日のことでした。

 

 

私の実家の隣には、公民館があり、そこには卓球台が置かれていました。

 

兄は、卓球部ではなかったはずですが、気分転換に、私を相手によく卓球をしていました。

私は小学生ですし、そんなうまくもありませんが、それでも相手がいなかったので、私を誘っていたんだと思います。

 

 

公民館の卓球台は、誰が使っても構わないのですが、公民館は日曜日だと鍵が閉まっています。

直ぐ近くに、鍵を預かっているおばさんがいたので、そのおばさんに鍵を開けて欲しいと頼みに行けばよかったのですが、兄はそれができませんでした。

 

 

でも、私は、鍵が閉まっている方が良かったんです。

だって、卓球なんてしたくないし、嫌だったからです。

 

だから、鍵が閉まっていたことで、私は安堵して、「これで、卓球をしなくて済む。」そう思いました。

 

 

ところがです。

 

兄は、公民館のそこらじゅうの窓と言う窓を調べ、トイレの小さな窓に鍵がかかっていないことをみつけたんです。

 

兄は、自分がそこから入って、中から鍵を開けるといい、壁をよじ登り小さな窓から入っていき、言っていた通り、中から鍵を開け、私を入らせました。

 

兄は、自分がやりたいと思った卓球をやることができて嬉しいかもしれませんが、こんな入り方をして見つかったら、怒られるのに決まっているし、そもそも私は卓球をしたくないんです。早く帰りたくて仕方がなかったんです。

 

 

 

案の定、鍵を管理していたおばさんがやってきました。

鍵が開いているはずがない公民館で、卓球をしている姿は、外から丸見えだったからです。

 

もちろん、「何処から入ったんや!」 と、怒られました。

 

おまけに、親にも言われて怒られました。

 

 

 

私は、兄の卓球の相手をするのが、嫌で嫌で仕方なかったんです。

 

 

 

この記憶が、何度か蘇ってきていたのを思い出して、この気持ちと、甥っ子に対する気持ちが全く同じであることに気づきました。

 

やりたくないのに、無理やりやらされた。

やりたくないと言っても、絶対にやらされた。

やらなくて済む理由がみつかったのに、それでもやらされた。

 

 

この兄との記憶を、甥っ子に投影していました。

 

 

 

夕方になり、雨も小降りになり、甥っ子達は到着しました。

何の違和感もなく、迎えることができ、今日も午後から遊びに来ていました。

 

 

 

 

・・・と、なぜこんなことを書いたかといいますとね。

 

自我が使う幻想を、フラットの状態に創造し直すことはできるようにはなったんですが、

まだ、自分の人生を自分で創造していると言う世界にはいません。

 

何故なら、まだ『自分の人生』に、私の定義がないからです。

 

まだ、掴めそうで掴めないでいます。

 

 

 

この世のしくみは、

 

掴もうとすると、掴めないし、

自分の思うように、創造しようとすると、創造できないようになっています。

 

今やることをやっていれば、腑に落ちるヒントが必ずやってくるタイミングがくると思うので、

今、やりたいと思うことを行動に移すことを続けていきます。

 

 

このゴールデンウィークは、映画を観まくろうと思っています。音譜