自我優位でいた頃、この世のしくみを上手く使うことができませんでした。
何故なら、上手く使いたいと思っていたからです。
ビー玉を、ちょこんと乗せてしまえば、あとはピタゴラスイッチ(NHKの番組)のように、法則にしたがって、何もしなくてもビー玉は、目的通りの場所に到達する。
霊性進化すればするほど、この世のしくみに意識を委ねることができていきます。
でも、自我は、そうはいかない。
ちゃんとビー玉が転がってくれるか、心配で心配で仕方がない。
そもそも、自分が創ったピタゴラスイッチの構造に自信がない。
あの人から教えてもらった法則、別のあの人もそう言っていた法則を使って、角度も長さも、寸分の違いもなく設計して創ったんだから、間違いはないはず。
だのに、自信がない。
しっくりこない。
勇気を出してビー玉を置いてみたけれど、ちゃんと思った通りに転がってくれるのか、一瞬も目が離せない。
落ちたらどうしよう。
もう一度やり直さないといけなくなる。
あの人は、上手く転がしているのに、私のは途中で止まりそう。
何も問題なく、成功することだけを期待する。そんな私がいました。
これをしたら、こうなって欲しいと、結果ばかりを意識する私がいました。
じゃあ、今の私が、この世のしくみを、上手く使いこなせているかと言うとそうではありません。
何故なら、まだまだ知らないことがたくさんあるからです。
でも、今の私の分相応には使えます。
自我が使う意識と、この世のしくみに使う意識は、真逆なんです。
つかもうと思えば思うほどつかめないのに、その執着を手放してしまえばつかめてしまう。
追いかけようと思えば思うほど追いつけないのに、追いかけるのを止めた途端、追いつける。
楽になりたいと思えば思うほど努力が必要なのに、努力が努力でなくなった時に楽になれる。
結果を望もうとすればするほど結果からは遠のいていくのに、結果を期待しないでいると、それ以上の結果に巡り合える。
自我を持つ限り、この世のしくみを上手く使えないしくみになっています。
なにせ、自我のやりたくない事ばかりを、それも継続していくことで出会える世界。
自我は、今がどんな結果になるのかと、未来にある結果ばかりにフォーカスします。
逆に言えば、結果ばかりにフォーカスしている自分がいたとしたら、自我にどっぷり浸かっていると、自分の今の立ち位置を観察できます。
霊性進化していくと、結果より、今に意識が向き、今の行動を完結することに意識が向きます。
ここまでやると決めたことは、やり切ってしまう。
言い方を変えれば、
意識の私が、『やる』と決めたことを、肉体の私が実行に移す。
意識の私と、肉体の私がタッグを組んで協同作業をする。
意識は、常に内側に向いています。
自我優位だった私は、常に外側に意識が向いていました。
だから、この世のしくみを上手く使えなかったんです。