昨日、主人と、映画『ドライブマイカー』を観てきました。
3時間と言う長い映画でしたが、映画の中に吸い込まれていくような感じでした。
「自分自身から逃げてはいけないんだ。」
と言うことに気づくためのプロセスと、気づいたことで、今までできなかったことができたというあらすじでした。
人間意識が好む、この人たちがどんな結末を迎えたかにはフォーカスされていませんでした。
よく、
「自分自身を受け入れる」とか、
「自分自身を赦す」とか、
「自分自身を受け止める」
そんな言葉を聞くことがあります。
かつての私も、この言葉を使っていました。
でも、結局のところ、自我を持った私にはできませんでした。
自我は、いくらでも、自分自身に嘘をつくからです。
そう思ってもいないのに、「思ってもいいよ」 と言い、
「ルーズな私を受け入れます。」
「何をやってもダメな私を受け入れます。」
と言いながら、ルーズでいる自分がイヤなのに、肯定することで、ルーズを貫き通していいんだと勘違いしたり、
何をやってもダメな自分を赦すことで、中途半端で放置する自分でもいいんだと勘違いさせる。
「自分自身から逃げない」ことが、真に、自分を受け入れることだと思います。
「自分は、ルーズだ。」と思っている私と、
「ルーズなのはいけないことだ。」と思っている私がそこには存在します。
自我の私なら、
「私は、ルーズだ。それが私なんだから、それでいい。」と、理由をつけて、今のままでいるのが私なんだと勘違いするタイムラインを選択していきます。
霊性進化したい私なら、
「私は、ルーズだった。なら、そこを徹底的に改めて、やりきってみよう。」と、やりきった時、どんな感覚を得られるんだろうと言うタイムラインを選択します。
母の会話から逃げていた私と、友達と話しをするように、母と話しをした私。
心地良かったのは、逃げない私でした。
この心地良さを体験すると、
逃げようとしていることに出くわしても、
ここから逃げない選択をしたら、あの心地よさを味わえると、逆に向かっていくことができるようになりました。
おまけに、心地良さだけじゃなく、外に観える世界も変わってくる。
「自分自身を受け入れる」は、どれだけでも逃げ道がありますが、
「自分自身から逃げない。」は、自分自身を受け入れることができない限り、できないことだと思います。
逃げると、いつまででも追いかけられます。
逃げることを止めて、
一旦、自分と向き合ってみる。
逃げない私は、段々と意識の私に信頼され始めます。
意識の私と、肉体(思考)の私の信頼関係が成り立っていきます。
信頼関係が成り立っていくと、肉体(思考)の私は、意識の私に抵抗する必要はなくなります。
この抵抗が、苦しさを生んでいたことに気づきます。