『創造するのは、意識の私』

 

 

 

夕べ、角ハイを飲みながらドラマを見て、もう寝ようと寝室に向かう時、そう聴こえた。

 

朝になって、その言葉を思い出した時、

 

「そりゃぁ、そうだわゲラゲラ!!

 

素直にそう思いました。

 

 

 

 

私、何度も、このブログで、

 

「自我を使わない創造をする!!

 

そう書いてましたけど、

 

そう言ってる私が、既に自我を使ってそう言っていたことに気づきました。

 

 

 

でも、この世は、自我を使っていたとしても、そう決めると、そのプロセスが開始され、結局は自我を使わない創造をするようになっていくんだろうと思います。

 

 

 

 

 

昨日ブログを書いていて、もしかして勘違いをしてた?と思ったことがあります。

 

 

それは意識の私と、肉体(思考)の私の関係なのですが・・・

 

今までは、意識の私からズレると、心地悪い感覚になると思っていたのですが・・・

 

それは確かにそうなんですが・・・

 

ん~キョロキョロ、どうやって説明すればいいのかなぁアセアセ

 

 

 

 

意識の私と繋がる方法は、感覚でしかありません。

 

言葉として聞こえたとしても、それは翻訳しただけに過ぎず、元々は感覚を使っています。

 

・・・と、私は、思っとります。

 

 

 

私が胸に感じる、心地悪い感覚や、心地良い感覚を、脳に伝えて、脳が、

 

今の感覚は、怒り。

今の感覚は、喜び。

今の感覚は、憎しみ等々

 

人間である私は、脳に、言葉にしてもらわないと、その感覚が何なのかわからない。

 

 

肉体の私は、見たり、聞いたり、触ったり・・・と五感を使って外の世界の様子を脳に伝えますが、その際生じる、不安や怒り、喜び等々の感情は、先に意識の私が感じて、それを脳が、言葉として表してくれているのじゃないかと・・・

 

何が言いたいかといいますとね、

 

肉体の私が体験したことを、意識の私に伝えているんじゃなくて、

意識の私が、肉体の私に体験させているんじゃないかと・・・

 

何のこっちゃわからんことを言っていますし、それが何じゃいという話しなんですが・・・

 

でもね、

 

「創造するのは、意識の私」 だとしたら、肉体の私が感じる感覚と、連動させることが意図的にできるんじゃないかと・・・・

 

 

どう説明をすればいいのかわからないのですが、文字にすると、はっきりしてくることがあるので、わざと書かせてもらいました。

 

 

捉えられそうで、捉えられない。

今は、そんな感じなので、もっと明確になったら、お話しさせてください。

 

 

 

 

 

 

 

話しは変わりますが、

 

 

先日、このブログを書きました。

 

『陰』の感覚と全く同じ感覚の『陽』があると、書きました。

 

これね、ビンゴです。

 

 

その時、私がこだわっていることがあって、外軸だとわかっていても、どうやっても幻想ストーリーを膨らませてしまうことがあったんです。

 

で、ブログの中に書いていた、

他力本願のことと、太った人のコトを『陰』から『陽』へ反転したら、このこだわりとは全く関係がないのに、こだわりが消えてしまったんですよ。

 

本当に、この人間意識では、歯がたたない。

何が、どうなってそうなったのかも、どんな関係があって、消えてしまったのかも、さっぱりわかりません。

 

でも、この反転、これからも続行していきます。

 

 

 

 

 

今日は、何やら、意味のわからないようなことを書いてしまいましたが・・・

ま、私の気づきの日記ブログなので、よしとさせてもらいまひょゲラゲラ