「えっ・・・、別にいいんだけどさぁ・・・。ありがとうもないんだぁ・・・」
君が、忙しそうにしてて、大変そうだったから、手伝ってあげたのに、
自分の担当の分が終わったら、
「俺、約束があるから」
って、さっさと帰っちゃうんだぁ
なんだかなぁ~・・・
期待しているわけじゃないけど、もっと喜んでくれると思ってた。
期待しているわけじゃないけど、もっと感謝してくれると思ってた。
だのに期待はずれの態度。
なんだかなぁ~
こんな出来事があると、
「もう、これからは絶対に助けてやんない」
お礼を言ってくれない、感謝をしてくれないあの人は、常識外れ
そう思ったものでした
満足感の枯渇。
人は、自分が満足できることを追い続けているように思います。
爆買いをして、満足をしたい。
高価なモノを買って、満足したい。
美味しいモノをいっぱい食べて、満足したい。
高価なモノを食べて、満足したい。
人から褒められて、満足したい。
人の役にたって、満足したい。
いつまでたっても、外の世界から与えられないと満足を得られない。
でも、その満足は、直ぐに消えてなくなってしまう。
私は、お金があることや、好きなモノが手元にあることや、自分のやりたいことがやれること等々が、自分を満足させてくれるモノだと思っていました。
でも、その満足感は、いつしか消失し、また別のモノで満足を得ようともがいていたように思います。
最近になって、私の満足感は、どこから生まれるのかがやっとわかりました。
誰かに、お礼や感謝をしてもらって、私の存在価値を認めてもらうことや、
欲しいモノが手に入るだけのお金があることから満足感が生まれるのではなかったんです。
意識の私を満足させることで、満足感が生まれることを知りました。
意識の私が、
「お風呂にはいりたいなぁ~」
と言えば、直ぐにお風呂に入る。
意識の私が、
「ここがホコリだらけで、掃除したいなぁ~」
と言えば、直ぐに掃除をする。
そんな日常の何でもないことを望む、意識の私の願いを叶えてあげる。
「あの人は、直ぐに私を頼ってくるから、もう何も手伝ってあげたくないわ」
鏡に映った自分の自我を観て、そう思った時、
わざと手伝ってあげて、
鏡に映った自分の自我を満足させてあげる。
やがてそれらの行動は、はち切れんばかりの満足感を、肉体(思考)の私に感じさせてくれる。
自分に持っていないモノは、与えることができません。
お金がなければ、お金が欲しいと思うけど、誰にもあげたくありません。
水がなければ、水を欲しいと思うけど、誰にも渡したくありません。
自分が満足していないと、満足を与えて欲しいとは思うけど、与えることはできません。
満足感は、物質で得られるモノではなく、意識の自分を満足させることだったと気づいたんです。
意識の私が満足していれば、外の世界に満足を渡すことができ、肉体(思考)の私が満足を体験することになる。
そんなしくみが、この世にはありました。