私たちは、陰陽一対の世界にいるのに、
分離してる。
人間社会で生きてきて、
これは、正しいことで、これは、悪いこと。
これは、心地良いことで、これは、心地悪いこと。
今の生活より、あんな生活がしたい。
今の私より、もっと素晴らしい私になりたい。
あの人より、この人が好き。
うどんより、ラーメンが好き。
比較するモノが存在することで、自分の好むモノを選択し、
自分の思い通りの生き方をしたいと、自我が育っていきました。
霊性進化の過程で、陰と陽が一対になることで、この世のしくみの波に乗れることがわかりました。
陰陽一対になる為の試行錯誤が始まりました。
やがて、その試行錯誤の中で、自我の存在を知りました。
自我は、分離意識です。
自我を超えたい。そう思いました。
自我を超えるには、
話したくない。
聞きたくない。
観たくないことから、逃げないことが第一歩だと気づきました。
『めんどくさい』を使わない。
それだけでも、随分と私の観える世界は変わりました。
それでも、私は、外の世界を観ては、ジャッジを繰り返していました。
「そう思ってもいいよ。」
そう言ってあげると、確かに心の中は静かになりました。
でもそれは、一時的に使用する鎮痛剤のようなモノで、鎮痛剤の効果が切れればまた元通りです。
今になって気づきます。
「そう思ってもいいよ。」
その裏には既に、
「思ってはいけないことを、思っているよね。」
と、既に自分自身をジャッジしていました。
ただ、なだめていただけで、陰陽一対にはなっていなかったんです。
肉体(思考)の私が、意識の私と繋がる方法は、感覚のみです。
人間意識の私は、
光と言えば、闇。
好きと言えば、嫌い。
甘いと言えば、辛い。
のように、言葉での反対を陰陽とみてしまいがちですが・・・
そうではないようです。
同じ感覚に、陰と陽が同時に存在してるようなんです。
で、自分で検証してみました。
私の仕事は、介護保険サービス事業や、障害福祉サービス事業を行っている事業所に対して、法令順守でサービス事業が行われ、職員が働きやすい、利用者さんたちが、利用したいと思えるように、各事業所の管理者の方たちと連携していく、サービス課という部署にいます。
そんな中で、管理者の方の中には、
「サービス課が言うなら、そうしていきます。」
と、他力本願のようなことを言われる方がみえます。
その言葉が、今日、再び私の脳裏によみがえったので、これを使って検証してみようと、やってみました。
「サービス課が言うなら、そうしていきます。」
この言葉を聞いた時に感じる『陰』の感覚と同じ感覚が『陽』にあるはず。
その感覚を探っていったら、ありました。
『安心感。』
『頼れる。』
ここに辿り着いた時、〇を感じました。もちろん感覚です。
次は、職場からの帰り道、かなり太った男性が、左右に体を揺らしながら歩いてくる姿を見た瞬間、
「嫌だな」
そう思う私がいました。
この「嫌だな」と思う『陰』の感覚と同じ『陽』の感覚を探しました。
ありました。
『うらやましい』
『私も食べたい』
でした。笑うでしょ?
さっきまでイヤだった言葉やイヤだと思ったことが、一瞬のうちに変換されてしまいました。
これは、ネガティブをポジティブに無理やり変えるのとは違い、『陰』の裏には必ず『陽』が存在し、どちらが良いか悪いかのジャッジが存在しません。
今日の夕方ぐらいから、これをやりだしたことで気づいたんですが、
私、メチャクチャジャッジしてます。
何かを見た瞬間に、自分の好みかそうでないかとか、私と考えが違うか同じかを判断しています。
その速さと言ったら、マッハ級ですよ
まだ反転するのに時間がかかります。
100のジャッジに対して、2個反転できただけ・・・程度です。
でも、楽しい。
チェスをしたことない私ですが、チェスをしてる時ってこんなんですかね?
藤井聡太君、将棋をしている時って、こんなんですかね?
これが、陰陽一対にしているのかどうかは、まだ私にはわかりません。
でも、手ごたえがあります。
まだ、胸の感覚が錆びついているような感じです。
とにかく練習、練習。
続けてみます。