『自我』は悪いモノでも何でもなく、ただ在るモノ。
『自我』を手放すには、
『自我』を満足させるコト。
『自我』から逃げないコト。
『自我』を手放す方法はわかったけれど、『自我』を使ってしまっているコトに気づいてしまいました。
知人から、家族のコトや他の知人の話しを聞くコトがあります。
特に、家族関係や、知人のトラブルの話しを聞くと、私の頭の中で
「あぁ~、自我を使ってるのね。」
そうやって、自我分析が始まります。
家に帰ってきてからも、
「う~ん、どう説明したらわかってくれるかなぁ~」
「自分の自我と闘ってるんだよなぁ~」
んんんん
『自我』と闘ってるの、私じゃん」
これ、よくやってしまうパターンなんです。
私は自我のコトを知っている。
だけと、あなたは知らない。
だから、教えてあげたい。
これ、思いっきり自我バリバリで、
『自我』は、悪いモノだから早く手放した方がいいよ~
って、重いっきりジャッジしてるんです。
ってコトに気づきましたわさ。
こんなコトは、私にとって、日常茶飯事で、気づくんだけど、直ぐにまた使ってしまう。
と言うことは、わかるんです。
どう捉えるコトができたら、使わないようになるのかなぁ~と。
思考は、使いようで、
自我に使うか、スピリット意識として使うかなので、この思考とうまく友達になって活用させて頂くのがいい。
で、昨日の映画を思い出したんです。
どんな映画を観ても、共感や感動や教えられることはあっても、その映画の中にいる俳優さん達に対して、
「あなたが、そんなだから、そんなトラブルになるんだから、あなたが変わりなさいよ!」
とか、
「あなたが何も言わないからそうなるのよ。」
とか、アドバイスしようとは思わないですよね。
だけど、この現実社会では、直ぐに首を突っ込みたくなる。
首を突っ込みたくなるのは、私が正しいと思ってるからで、ジャッジをしてるわけです。
ジャッジするのがいけないと言っているのではなく、ジャッジは偏りを創ってしまい、自我を使った創造をしていると言うことです。
私は、自我を使った創造はしないと決めたので、この自我を使わない方法を模索している最中なんです。
で、「映画の映像を観ている。」と言う立ち位置から捉えるコトができたら、私はどんな世界を創造できるんだろうと思ったんです。
私が観ている世界で、自我を使っているのは、私しかいないんだと気づいたんです。
私が自我を使うから、自我を使った創造をしてしまうんだと、気づいたんです。
だから、また、私の大好きな、実験をしてみようと思います。
この私が観ている世界を、映像のように捉えるコトは、強烈に難しくも思えますが、テニスをし始めた頃だって、いつになったらラリーができるんだろうと思っていたのに、いつの間にかできるようになりました。
とにかく、思考に協力して頂いて、やってみようと思います。
何かそこから観えて来るものがあるかもしれません。
それは、無理