自分は、いっぱい話しをしたい。

 

あれも、それも聴いて欲しい。

 

 

でも、自分に関係のない話しを聴かされるのは、嫌い。

 

 

 

 

 

どうでもいいような話しを聴かされるのは、もっと嫌い。

 

 

 

 

 

人の話しを聴いてるようで、聴いていない。

 

相手の話しを聴きながら、ふと頭に浮かんだことを直ぐに話そうとする。

 

「でさぁ~」

 

相手が話していた内容と、全く関係のない話しをし始めても、それでも会話は成立する。

 

 

カフェで、3時間くらい話すのなんて、お茶の子さいさい。

 

で、

 

「じゃあまたね~バイバイ

 

そう別れてから、本当に言っておかなくてはいけなかったことを思い出して、また電話する。

 

 

気の合う友人となら、楽しい時間。

 

 

 

でも、母や夫とは、そうはいかない。

 

 

 

 

母は、昔、苦労したことや、誰かと自分を比較するような話しをしてくる。

 

夫は、自分の友人との面白かった出来事を話してくる。

 

 

 

母や夫の話しを聴きながら、私の中では、

 

 

 

「それ、何回も聴いたし・・・」

 

聴いてるような、聴いてないような、生返事をする。

 

 

 

 

でも、ここに

 

 

 

ヒントがあった飛び出すハート

 

 

 

 

 

私は常々、自我を超えたいと思ってました。

 

でも、自我は、巧妙な手口を使って、ゴキブリじゃないけれど、1㎜の隙間でもあろうものなら、気づかないうちに卵を産んで、増やそうとしてきます。

 

 

自我は、感情を使うので、感情が現れるとわかるのですが、傲慢さという技も使ってきます。

 

傲慢は、自己満足という足技を使ってくるので、自分ではなかなか見えない。

 

何せ、自我優位の時は、自分の足元など見ようとしませんから。

 

 

 

だから気づいた時には、既に遅しだし、暴走していることさえなかなか気づけない。

 

 

 

 

 

お話しは変わりますが、

 

①私は最近『満足』と言う感覚を味わうようになってきました。

 

②霊性進化のヒントは、いつも『聴きたくない、話したくない、観たくない。』ところに隠れています。

 

③先日Kさんとのお話しで、相手の話しを聴いていて、

 

「褒めて欲しいと思ってるな。」

 

と思った時、友人なら褒めれても、自分の親だと、「絶対に褒めたくない。」と思ってしまうと言うことに気づきました。

 

④そして、先日、自我を超えるには、自我を拒否するのではなく、自我を満足させることで、逆に超えられるんじゃないか?

 

そう思ったわけです。

 

 

 

 

で、これらが繋がって、また私の実験が開始されました。

 

 

どんな実験かって?

まあまあおいで そう焦らさないでくださいよぉ~笑

 

 

 

結論から言えば、相手を満足させるんです。

 

ただ、これは、承認欲求や執着等々と勘違いしやすいのですが、自分のコトを好きになって欲しいと思う相手や自分の得になる人の為の、相手を満足させる。ではありません。

 

その逆で、嫌いな相手に対してです。

と言った方が、わかりやすいですかね。

 

 

 

私は、母や夫のコトが嫌いではありませんが、母や夫の、話す内容や行動の部分的な部分にイヤなところがあるわけです。

 

 

このイヤなところが、私の自我です。

 

じゅあ、どんな自我を、母や夫に鏡として観ているのか?と言われても、私には、わかりません。

 

でも、イヤだと思うと言うことは、私の何かを嫌っている部分、否定している部分と言うことになります。

 

そこは赦せない部分なんだと思います。

 

 

 

この世は、陰陽一対で成り立っています。

陰と陽が揃って、初めて一対になる。

 

 

赦せない部分を赦せたら、一対になるんじゃないかと、そう考えたんです。

 

 

 

 

で、実験開始。

 

どんな方法かと言うと、

 

 

 

例えば、母と会話をしていて、

 

「あ、今、バカにしたような口調になったな。」

「あ、今、めんどうだなと思ったな。」

 

と気づいたら、瞬時にリセットして、真剣に話しを聴く。

 

 

 

母は、緑内障があって、視野狭窄があるから、ゆっくりとしか歩けません。

 

そんな姿を見て、

 

「もっと、早く歩けないのかなぁ~」

「こけたりしないだろうなぁ~」

 

そんな自分に気づいたら、瞬時にリセットして、母の横に付いて、腕を絡ませる。

 

 

 

夫が、自分の友達との出来事を、また話していると思ったことに気づいた瞬間に、

 

きちんと夫の目を見て話しを聴く。

 

 

 

 

超えられない自我を超える。

 

 

 

母や夫は、私の鏡となってくれています。

 

私がそこに映っているのですから、その私を満足させてあげる。

 

 

 

 

 

外の世界は、鏡であると、どんなに言い聞かせても自我は、自分中心に物事を考えようとしてきます。

 

 

 

 

この境界線を越える。

 

 

この境界線を、無理やり壊すのではなく、

こちらの私の満足感とあちら側にいる私の満足感を一致させる。

 

 

そうすれば、境界線は無くなるのじゃないかと、そう考えたわけです。

 

 

 

 

きっと、何度も何度もリセットし直さないといけないけれど、

これを繰り返すとどうなるのか実験したいと思います。