「あなたは、自分のことを信じることができますか?」
そう質問されたら、
「ええ、まぁ」 とか、「たぶん・・・」 とか答えるんでしょうか?
じゃあ、何をもって、自分を信じていると定義できるんでしょう?
人間意識優位の時の自信とは、自分の経験値に比例していたように思います。
これだけ勉強してきたんだから、きっと合格するだろう。
これだけ練習してきたんだから、きっと試合に勝つだろう。
これだけ続けてきたんだから、きっと上手くいくだろう。
でも、結局、上手くいかないことが多かったように思います。
でも、時折ありませんか?
根拠のない自信。
そんなに勉強してもないし、練習をしたわけでもない。
最近始めたばかりで、それほど技術も身についていない。
だのに、
「絶対に、いける」
そんな、訳の分からない、根拠のない自信。
一生懸命に勉強したはずなのに、何だか「合格しそうにない」と思った時は、必ず不合格になったり、それほど勉強もしていないけれど、「絶対に合格できる。」そう思った時は合格したり。
でも、こういう体験は、誰もがしていると思います。
周りの人が、無理だよって言ってきても、妙に自信があって、実際にやってみると上手くいって、みんなが驚いたりする。
自分のハートの中に感じる感覚があるのに、大人になるにつれ、色んな体験や知識を持ったことで、先読みして、
これはやっても上手くいかないから、手を出さないでおこう。
これをやり出したら、きっと重荷になるから、誰かにやってもらおう。
やる前から、やらない選択をしてしまう。
『やる前から、やらない選択』
これ、特別な時だけそうしてるように思えるけど、ほぼ日常的にこの選択をしています。
めんどうなことは、最初からやらないでおこう。
やってみたいけど、わからないことばかりで、バカにされそうだから、やめておこう。
自我優位だと、自分のハートが持つ感覚を無視します。
自我の世界は、外の世界があって、それに私が対応していると思っているから、今まで得た知識や経験から判断して、目の前の選択をしようとする。
そんな自我の世界から、ハートに感じる感覚を優位にするためには、
何度も何度も、この感覚を使ってみる必要があります。
「え?傘を持っていけというの?」
ハートに感じる感覚が、思考を通じて翻訳すると、そう思えたとしたら、傘を持って行く。
この後、雨が降る降らないは全く関係がない。
この傘が縁で、何かが起こるか起こらないこととは、全く関係がない。
ようは、
「傘を持っていけ」と、そう感じたなら、その感覚を信じる。
結果は、どうだっていいんです。
傘を持って行ったことで、周りから笑われたとしても、それでもいいんです。
ようは、
自分の感じたその感覚を信じること。
『自分を信じる』というのは、
何かができる自分だとか、周りが信頼してくれるからとか、そういうことではなく、
自分の感覚を信じる。
意識の自分の存在を信じる。
そういうことだと、私は、思っています。
私は、この自分のハートに感じる感覚で選択しています。
その感じる感覚で、今選択したことが、いったいこれからの何に繋がるかなんて、そんなことは関係がありません。
でも確かなことは、このハートに感じる感覚とピッタリ一致する選択をすると、
結局、私が望む方向にタイムラインが創られていきます。
私は、毎日のこの日常で、ハートの感覚を使っています。
例えば、
料理を作る時の、砂糖の量や塩加減も、自分自身に
「どれくらい入れる?」
そう質問して、
計量スプーンに入れる砂糖の量や塩の量を、ハートの感覚と一致した量を入れるようにしています。
そして味見をしてみる。
ちょうど良い味付けになったら、「ありがとう」と一緒に喜ぶ。
味付けが、薄いなと思ったら、また、ハートの感覚と一致した量を入れる。
そんな毎瞬毎瞬の選択を、常にハートの感覚で選択していることで、どんな選択が目の前に現れようと、私はハートの感覚で選択しています。
以前、何を選択したのか全く忘れてしまいましたが、思考優位なら絶対にこっちだよなと思える選択より、ハートの感覚の方を選択したら、素晴らしいことが起こりました。
そんなに素晴らしいことなら、覚えとけよ!
そう言いたいのはわかりますが、いつの間にか、そういう楽しかったことや感動したことに執着しなくなってしまいました。
外に観える世界より、自分のハートの感覚を信じることは、
まるで、バクチをやっているようなものでした。
でも、そのバクチ、やってよかったと思っています。
何故なら、
後悔が存在しなくなったからです。