「あの子、大学合格したんだってね。良かったねぇ~」
周りの人は、あの子が大学に合格したと言う結果を観るコトができるけれど、あの子がどんなプロセスを経て、合格したのかは、本人以外、家族さえ誰もわからない。
私が、いつも外の世界に観ているのは、結果。
さっき職場で、
「また明日ね」
と別れた同僚が、どんなプロセスを辿って、明日の朝、「おはよう」と言う結果を観せてくれるのか、私にはわからない。
私たちは、常に外の世界に結果を観ています。
どんなプロセスを辿って、今、こうやって私が、ここにいるのか知っているのは、私だけです。
私だけの課題が、このプロセスの中に存在しています。
大学受験に合格するために、
こんなふうに勉強したり、
時には、バカなことをやってみたり・・・
こんなこともあったプロセス。
だけど、今日お話しするプロセスは、霊性進化するためにプロセスがある。と言うお話し。
以前の私は、食べることや掃除をすること、お風呂に入るという私的な日常生活も、仕事をしたり、旅行に行くということも、当たり前のように、人として生きていくうえで必要だからしていただけで、特別意味のあることではありませんでした。
毎日をただ、追い立てられるように過ごしていました。
それが今は、その毎日の日常を、
スローモーションのように捉えながら過ごしている自分がいます。
どう説明すればいいのか、わからないけれど・・・
毎瞬毎瞬の選択を、意図的にしている。
とでも言えばいいのかな?
例えば、
誰もいない職場の廊下に落ちているゴミを、今私が拾うか、拾わないか。
拾わなくても誰も見ていない。
別に私が拾わなくても、誰かが拾うだろう。
別にゴミが廊下に落ちていても、構わない。
これが、私にしかわからないプロセスの中にある課題。
そのゴミを見てしまったら、選択は2通り。
拾うか、拾わないか。
ただ、それだけ。
私は、拾った方が心地良いので拾います。
逆に言えば、拾わないと心地悪いことを私は知っています。
でも、この選択が、心地良いタイムラインを選択することになる。
こんなふうに、私は常に、何をする時でも、
これをやり終えた時は、心地良い。
この感覚を得られる方を意図的に選択しています。
私はいつも思います。
私だけしか知らない、この毎日の日常のプロセスの中に、羅針盤が存在していると。
毎瞬毎瞬が、宝探しでもしている子どものような、そんな感覚を覚えます。