どっちの考えが、本当の私の考えなんだろう?
私の頭の中では、ひっきりなしに何かを言ってる。
常に喋ってる。
仕事のことを考えていたのに、もう夕食のことを考えてる。
職場で嫌味を言われたことを考えてたと思ってたら、昔の友達を思い出したり。
常に、頭の中で、喋ってる。
意識の私と、思考を使うこの肉体の私。
今、頭の中で喋ったのは、
意識の私?
それとも、思考の私?
頭の中で、ペラペラペラペラ、ああでもないこうでもないと喋っているのは、思考の私。
意識の私は、言葉を使わない。
意識の私は、感覚を私に感じさせて、その感覚を思考を使って翻訳して言葉にしている。
頭の中で、ブツブツ文句を言っていることに気づいたら、
「そうなんだぁ~、そう思ってるんだぁ~」
と、思考の私の考えを聞いてみます。
そうすると、いつの間にか、静かになっていって、頭の中は、空っぽになります。
意識の私の住み家は、胸のハートの位置にあります。
私は、常にその位置に意識を向けています。
料理の味付けをする時も、
砂糖は、このくらいでいい?
塩加減、どう?
仕事をしている時も、どんなふうにまとめたらわかりやすいかを、常に相談します。
アイデアが浮かんだら、即、実行してみます。
意識の私がそのアイデアをくれたのかどうかなんて、関係ありません。
私は、それを実行してみるまでです。
この間なんか、3回やり直したこともありました。
1回目のアイデアを採用して行動に移したら、大きくなりすぎて、実用的ではなかった。
で、また、どうしたらいいか相談をしたら、
縮小して印刷すれば? とアイデアが浮かんで、即、実行。
縮小は良かったけれど、レイアウトが上手くいかず、もう一度やり直し。
で、3回目でようやく、プレゼンに使える資料になった。
別に分かればいいんだし、そんなに何回もやり直さなくてもいいのかもしれない。
でも、私は、その選択はしない。
めんどうは、一切採用しない。
『自分が納得できるモノを、期限内で仕上げる。』
こういう風に、自分で決めてしまうと、このプロセスが始まるのを私は知っているので、焦らなくても、時間が足らないように思っても、とにかく自分の閃きを信じて実行する。
そうすると、必ず、自分が納得できるモノが、期限内で仕上げることができます。
意識の私と、思考と肉体を使う私の共同作業です。
こんなことを繰り返していくうちに、意識の私が言っているのか、思考の私が言っているのかがわかってきます。
そこには、「自分を信頼できるか?」 と言う、究極の選択があります。
最初の頃は、人間意識優位でしたから、今まで生きてきた中で仕入れた知識や経験から、目の前の選択をしていました。
その選択基準は、
どっちが、得か損か。
どっちが、場を読んだ選択か。
どっちが、簡単にできるか。
どっちが、将来役に立ちそうか。等々
私の中のデータを、総動員させて選択する。
でも、意識の私がどちらを選択しようとしているのかを知るのは、ハートに感じる感覚しかありません。
今まで生きてきて得たデータから選択した方がいいはずなのに、
感覚では、別の選択をしている。
どっちを信じるのか?
最初の頃、よく失敗してました。
失敗と言うより、選択した後で、「あぁ、やっぱりあっちを選択すれば良かった。」と思うことがありました。
例えば、
「あ、傘持っていかなきゃ。」
と、その言葉と感覚が一致していたのに、
「ま、いっか」
と、めんどくさいが発動して持っていかなかったら、やっぱり雨に降られた。みたいなね。
そんなことを繰り返すうちに、この感覚の方を信じることに決めたんです。
もちろん、思うような結果にならないことなんて、ざらにあります。
でもね、後悔がないんです。
「あっちを選んでおけばよかった。」と言う後悔がない。
上手くいかなくても、スッキリした感覚がある。
今の私は、その自分の感覚で選択したことが、上手くいくかどうかなんて、そんなことはどうでもよくて、とにかく、この感覚が示す方向を選択する。
それを繰り返しています。
どっちが本当の私かどうかは、自分にしかわからない。
その感覚は、急に掴むことはできません。
だから日常で練習をしていく。
そうすればいつの間にか、違和感のある方は選択できなくなっていって、もうその時には、内側の自分を信じる自分が存在していますから、外に観える世界も信頼できる世界になっています。
この感覚は、無料で、使いたい放題です。
誰でも、自由にいつでもどこでも使えます。
誰にも邪魔されないし、誰の助けもいりません。
人間として生きて、これを使わないのは、本当にもったいない。
どんどん使ってみるとわかります。
メチャクチャ楽しいってことが。