「あ そういうコトだったのか」
つい最近起こっていた出来事と、今の自分の内側との関係に、後になって気づくコトがある。
そういうコトだったのかと、腑に落ちた時、喜びと感動と驚きと興奮を一気に味わう。
以前は、自分が何かに気づくタイミングは、『後で』起こるコトがほとんどだったんですけど、今は、『今』気づくコトがほとんどです。
イメージで言うと・・・
小学生の時の算数の問題で、
『A子さんは、あめを5つ買って、100円を支払ったら、50円おつりが返ってきました。さて、あめ1つの値段はいくらでしょうか?』
と言うような問題を、3問ぐらい時間差で出されて、3問目を問いてしばらくしてから、
「なんだ、この問題は、足し算と引き算、掛け算と割り算の使い方の問題だったのか」
と、先生が、何度かこの問題を出してきた意図が、ようやく飲み込めたみたいな感じ。
それが、今は、
算数も国語も、理科も社会も、全ての科目が混じっているような文章問題があって、答えを出すためには、その文章の奥にある真意を読み取った上で、必要な計算式を表す必要があって、この宇宙と人間社会のコト全部を総括したうえで、実際に行動を起こして出た結果が、君の導きだした答えとする。
みたいな・・・
それもですよ、おまけに、
「この問題を解くか解かないかは自由ですよ。
無視していても、一向に構いませんからね。」
と、ニコニコしながら、本当に自由ですからねと念を押してくる。
ここから先は、あなたが選択することですから、一切をお任せしますよ。
そう言われているような、課題の出され方に変わってきています。
今までは、気づけば何とかなっていたのが、
「さて、これからどうしますか?」 と、どんな行動を起こすのかを見られているような感じです。
例えば、
内側の気づきは、100人いれば100通りの気づきがありますが、この三次元の社会の中で私たちが生きていて、道徳的なコトは、共通していることがありますよね。
自分が間違っていたことで他の人たちに迷惑をかけてしまったら、誠心誠意謝るとか。
人身事故を起こしてしまったら、自分が悪いとか相手が悪いとか関係なく、すぐさま相手がケガをしていないかを確認して必要な対応をするとか。
高額なお金を拾っても自分のモノにせずに、警察に届けるとか。
もっと身近なコトでは、
両親や夫や子どもと言う家族に対してでも、ありがとうやごめんなさいと、子ども大人関係なく、人として、感謝するときはするし、自分が悪ければ、きちんと謝る。
家族であっても、親しい人であっても、挨拶をしたり、思いやりをもったりと、自分が人としてどうなんだ?と言う問いに対して、どういう行動をとっているのか。
内側で起こった気づきから最善を導きだし、それを外の世界の最善と、どう組み合わせていくのか。
そんな訓練を、最近はしています。
って、なんか、難しそうなコト言ってますけど、
そういうコトを、意識して行動してたらどうなるのかなぁと、ここにいるおばちゃんは、そんなコトに興味を持っていると言うお話しでした