今日、久しぶりに父に会いに行きました。

 

オミクロン株のこともありますが、コロナに感染される方が少なくなり、コロナワクチンを2回接種し、インフルエンザワクチンを接種した書類があれば、15分だけホールで面会ができるようになったので、母と一緒に会いに行きました。

 

 

 

私たちのことは、ちゃんと覚えてくれていて、ニコニコして、「俺の部屋に行こか。」 と、誘ってくれました。

 

父と一緒に働いていた人が、94歳で先月亡くなったと報告すると、もの凄く驚いて、

 

「94歳まで生きたんか!?びっくり

 

と、91歳の父は、自分がまだ82歳くらいだと思っているため、大いに驚いてました。爆  笑

 

 

 

 

 

 

2ヶ月近く前だと思いますが、父が夜中に起きて、部屋のドアをガチャガチャするため、他室の利用者の方に迷惑をかけると言うことが起こりました。

 

この時、私は何を鏡として観てるんだろうと内観し、いきついたのが

 

「迷惑をかけてはいけない。」

 

と言う、信念でした。

 

 

 

その後、父は夜中起きることなく経過したのですが、何日かすると再び夜中に何度か起き、その日の朝には、まだ朝食の時間でもないのに、何故、自分だけがご飯を食べることができないんだと怒り始め、介護士さんの腕を強くつかみ、暴言を吐くと言う行為を撮った動画が送られてきました。

 

その後も、暴言を吐くことはないものの、車いすを操作して勝手に部屋へ戻ろうとしたり、車いすから立ちあがる等の行為があり、落ち着かない状況報告がありました。

 

 

 

 

 

『家族』 と言う存在が関わってくると、途端に自我の沼の中に引きずり込まれます。

 

鏡として何かを観せられていると気づいていながらも、外軸になり、

 

認知症なんだから仕方ないだろう。とか

そういう人に対して支援するのが、そちらの仕事だろう。とか

何で、わざわざ動画なんて送ってくるんだ。私にどうしろと言うんだ。

 

と、いう状況に、私はなりました。

 

 

でも、逆にそうなったコトで、自分の怒りに気づくコトができました。

 

 

父が、私に観せてくれているのは、私の『怒り』だと気づいたんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば、夫が子供に対して、Max10で怒っていたとします。

 

 

Max10は、イライラを超えて、怒鳴るレベルとします。

逆に、Max1は、夫がイライラしているなと、わかる程度のレベルとします。

 

 

 

夫が、Max10で子供に怒鳴っている様子を見た私は、

 

「そんなに怒らんでもいいやんか!」

 

と、夫に言い、子供の見方に付き、怒る夫の方が大人げないと、心の中で私が思ったとします。

 

 

 

ところが、よくよく自分のコトを思い直してみると、

 

 

 

 

 

 

子供が最近勉強もせず、お手伝いもせず、遊んでばかりいると、私自身もイライラしていたコトを思い出します。

 

でも、私は、夫のようにあんなには怒鳴らない。

もう少し言い方があるだろうと思ってしまいます。

 

 

 

 

ところがどっこいなんですよ。

 

 

 

この怒りを外に出すか、内に抑え込んでいるかの違いだけで、夫は、私の代弁をしていてくれてるんです。

 

 

 

「いやいやおいで、夫はMax10だけど、私はMax3くらいですよ。」

 

そう思いたいけど、夫がMax10で見せてきたなら、私もMax10の怒りを抑え込んでいるんです。

 

 

なぜ、そう言い切れるのかって?

 

 

だって、夫に

 

「そんなに怒鳴らないでよ。」

 

と、夫の怒りを抑えつけようとしても、一向に夫の怒りは収まらないけれど、

私の怒りを観せてくれたんだとわかった途端、夫の怒りも収まっていく経験をしてるからですてへぺろ

 

 

 

 

 

 

と言うコトを思い出した私は、父の怒りは、私の怒りだとわかり、早速紙に書き出しました。

 

自分がどんな怒りを抑え込んでいたのか、洗いざらい書き出しました。

 

多分・・・いや、絶対に、その内容を読まれたら、私は、首を絞められ、殺されるでしょう滝汗

 

 

 

でもいいんです。

見たくない自分を、ちゃんと見た方がいいんです。

自我を観るには、絶交のチャンスです。

 

 

 

で、洗いざらい書き出したことで、自分がどんなふうに思い、どんな感情を持ち、どんな自我を持っていたのかがわかり、傲慢な私も観るコトができました。

 

 

そうできたコトで、

 

あぁ、もう父は大丈夫だ。

 

『心底』そう思うコトができました。

 

 

 

 

この時の、『心底』思えた感覚からすれば、

 

「迷惑をかけてはいけない。」

 

と言う、信念に気づいた時は、まだ『心底』とは思えていませんでした。

 

 

 

 

私が、『心底』思えた日から、父は穏やかになり、今日面会した時にお会いした職員さんからも、

 

「あの時は、いったい何だったんでしょうねぇ」

 

と、言われました。

 

 

 

 

 

この経験から、自分のハートの調律は、『心底』と感じるコトができる感覚まで、

逆に言えば、『心底』感じれない感覚のままでは、まだ調律できていないんだと、はっきりと感覚を掴むコトができました。

 

 

 

『心底』 と言う感覚を掴むと、タイムラインが変更されます。

 

 

この感覚を掴むまでは、自分のハートの調律を曖昧で終わらせてはいけないんだと確信した次第です。はい。