子供が小さい頃、どんなに言っても、私の思うように片付けてくれなかった。

 

だから、雑貨のカタログを見ては、簡単に収納できそうなグッズを買って、片付けさそうとした。

 

最初は、それを使って片付けてくれたけど、やっぱりまた散らかる。

 

心は、いつも満たされない。

 

 

 

 

 

主人も私も働いている。

 

2人の月給を合わせれば、2人のボーナスを合わせれば、それなりの金額になった。

 

貯金通帳にも、それなりの蓄えはあるのに、いつも将来の不安が付きまとい、心は満たされない。

 

いったいいくらあれば、私の心は安心感で満たされるんだろう。

 

 

 

 

 

看護師として働いていた時、いつも勉強してた。

 

美容院にも、看護雑誌や医学書を持って行って読んでいた。

 

同僚たちと勉強したり、研修会を開いたり、研修に行ったり、勉強したことをまとめたり・・・

 

でも、どんどん勉強することが増えていって、いつまでたっても、心は満たされなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

私にくっついた、信念や観念、エゴ、思考。

 

これらがただ、ベールとなって覆いかぶさっていただけで、

 

私は、常に満たされていたんだと、今になって知る。

 

 

 

 

 

子供たちが、私の思う通りの人生を歩んでくれることや、

使っても使っても、使いきれないほどのお金があることや、

猛勉強したり、働きまくって地位を得たりすることで、

 

この満たされた感覚にはならない。

 

 

 

何故なら、

子どもが私の思うように人生を歩んでくれなかったら、

お金が無くなったら、

勉強したことが生かされなかったり、働きまくって体を壊したりすれば、

 

満たされていたモノは、いったいなんだったのだろうかと、底なしの不満へと入り込む。

 

それは、外の世界に影響されたモノ。

 

 

 

 

 

外の世界に影響されず、

ただ、今、ここにいる私と、本当の私が一致したときに感じる感覚が、

 

この、満たされている感覚なんだろうと、今、そう思う。

 

 

 

 

そして、今になって思うのは、

 

この満たされた感覚は、

「私は、満たされている。」 と、

無理やり自分に言い聞かせても、味わえない感覚。

 

なぜなら、「私は、満たされている。」 と、思い込もうとする奥には、

「満たされていない自分」がいる。

 

 

 

 

本当に、ここにきて、物質が心を満たすのではないと、実感する。

 

何かをもらった時だけ、

心地いい言葉をかけてもらった時だけ、

何か美味しいモノを食べた時だけ、

何かを達成した時だけ・・・

 

 

この、心が満たされる感覚は、『常に』 味わうことのできる感覚。