上矢印

昨日書いたブログですが、

 

では、人間意識における『臭いモノ』とは、いったい何なのか?

 

 

 

それは『自我』です。

 

 

 

『自我』は、私たちが人として生きる上で必要なモノです。

 

自分と自分以外の人を分ける意識で、これが私だと認識できるために必要なモノです。

 

 

 

 

よく、「あの人は、自我の強い人だ。」と、表現することがあります。

例えば、

自己主張がはっきりしていたり、自分が決めた事は譲らないとか、周りの空気を読まずに、自分のしたいことをしていたりするような人。

 

でも、これは、表に出すか出さないかであり、それを生かせば、リーダーシップを取れたり、それが生かされなければ、うざい人になったりはします。

 

 

 

 

私たちは、生まれると大人に育てられます。※一概には言い切れませんが。

 

そして、その育てられた環境で、その人の考え方、いわゆるその方が持っている信念や観念を元に、しつけをされることになります。

 

そして学校でも、道徳や先生の教えを聞くことになります。

それは、人としての生き方や、人に対する関係性であったりします。

 

 

 

 

私たちは今、とても豊かな暮らしをしていて、食べる物もたくさんありますが、大昔はそうではなかった。

獣を追いかけて食料にしたり、逆に殺されていたり。

いつ食べれると言う保証もなく、安心して生きていられると言う環境ではなかったのだろうと思います。

そういう環境の中で、子孫を残すためには、1人でいるより集団でいる方が、生き延びることができる確率は上がる。

 

 

 

そういう遺伝子を持った私たちは、無意識に集団に溶け込もうとします。

 

愛されないと、集団から外される。

自分の存在価値がないと、一緒にいさせてもらえない。

 

 

 

そういう意識から、

 

自己中心でいてはいけない。

優しくしなければいけない。

相手を傷つけてはいけない。

みんなと同じような行動をとらなければいけない。

役に立たなければいけない。等々

 

無意識に、集団に溶け込めるような信念や観念を持ってしまいます。

 

 

 

 

 

以前、このブログにも書きましたが、私は、母が近所の人の悪口を言うのを聞きたくありませんでした。

母、本人は、悪口を言っている気はありません。事実を言っていると思っています。

その人の食生活がどうのとか、お金があるのにケチだとか、何でも人の物を欲しがるとか・・・

 

会えば、そんな話しばかりしますし、その人はその人の生き方があるのだからと答えると、その時は、そうやけど・・・と言いながら、また会えば、そんな話しです。

 

だから、私のとった行動は、違う話しにすり替える。

なにせ、聞きたくないのですから。

 

 

 

 

この世は、鏡です。

 

この母に見る嫌な部分は、私の意識が映し出されているわけです。

それが『自我』だと、やっと気づきました。

 

私が見たくない『自我』を見せてくるから、私はそこに蓋をしようとして見ないようにしていたんだとわかりました。

 

 

 

 

母が、誰かの悪口を言う言わないは、実のところ関係がないんです。

でも、悪口を聞かされるのは、聞かされる側としては嫌なもんです。

だから当然、聞きたくありませんから、一生懸命に母の話しを聞く気にはなりません。

適当に相槌を打ったり、ごまかしたりします。

 

 

でも、よくよく考えてみれば、こういう日常的な話しって、それを話して何か答えが欲しいとか、どうにかして欲しいって話しじゃなくて、そう思った事を聞いてほしいだけなんですよね。

 

母は、そう思った事を聞いてほしかっただけなんです。

それは、自分中心の話しで、自分のものさしで良い悪いを判断した話しでありますが、それを聞いて欲しかっただけなんです。

 

 

そして、私が、その母の話しを聞きたくないと、母の話しに蓋をしたのも、自分中心で、相手のことなど思ってもいない私だったんです。

 

 

私が見たくなかったのは、聞きたくなかったのは、『自己中心になるのはいけない。』と思っている私が、『自己中心になっている』と言う、私の『自我』そのものだったんです。

 

 

 

母の悪口に同調する必要はありませんが、「へぇ~、そうなんだぁ~。」とか「そういう事があったんだぁ~」と、母がそう思ったのだから、「そう思ったんだね。」と認めてあげればいいだけだったんです。

 

 

 

この世は、鏡です。

 

 

その言葉がけは、私自身に対する言葉になります。

そう思った事を認め、赦していく。

 

 

 

見たくないモノ、聞きたくないモノ。

 

それは、自分の奥にある『そう思ってはいけない』のに、『そう思っている自分』だったんです。

 

だから、蓋をして、見ようとしなかった。

 

そう言うことだったんです。