外して、外して、外して、外したおしてきた。
何が見えてくるのか、ただ知りたかった。
もちろん最初は、そうじゃなかった。
最初は、自我の欲から始まった。
精神世界に興味を持ち、この人間として生きている時が眠っている時で、本来の自分に目覚めれば、全てが思い通りになると・・・
思い通りになる?
やりたいことができて、欲しいだけのお金が入ってくるってこと?
そうなれるのなら、そうなりたい。
でも、どうやったらそうなれるのか?
どうなったら、目覚めると言えるのか?
そういうことが書いてある本も、読みあさった。
この本を読めば、覚醒できるの?
この人の真似をすれば、覚醒できるの?
その本を読んでも、真似をしても、覚醒すると言うことはなかったけれど、ヒントは隠れていた。
ヒントは、本だけじゃなかった。
何気なく見ているテレビの番組の中や、友達との話し、どこかの飲食店にかけてある額の中の言葉。
そこらじゅうにヒントが散りばめられていた。
でも、それがヒントだと教えてくれるのは、腑に落ちることや、閃きを通じて。
ガイドは、誰にもついている。
ガイドからのヒントを、誰もが受け取っているけれど、人間意識があまりにも強いと、それに気づけないでいる。
人間意識が強くても、実のところはガイドとつながって、行動もしている。
ただそれを、自分だと勘違いしているだけ。
自分の世界を創造できる。
どの本にも、そういう内容が書かれていた。
実際には、今、この瞬間、誰もが自分の世界を創造している。
ただ、自分の創造した世界が、自分の思う通りの世界ではないため、今と違う自分の世界を創造したいと思ってしまう。
その創造は、まるで明日から自分が社長になって、大金持ちになっているような想像。
その創造は、好きな人と明日結婚しているような想像。
その創造は、自分がやりたいと思っていることを、誰かが後押ししてくれたり、協力者になってくれて、自分は何もしなくても豊かになれるというような想像。
その創造は、自分の子供が、自分の思うような子供になって、有名な学校に行き、この先お金に何の心配もない会社に就職してくれて、私が気に入るような伴侶を得て、私の老後をちゃんと看てくれるような想像。
それらの創造は、自我が想像するモノであり、本来の私たちが創造するモノとはかけ離れている。
自我は、失うことをとても恐れる。
この感情を捨てたら、どうなるのか?
この観念を捨てたら、どうなるのか?
この信念を捨てたら、私は悪い人になるんじゃないのか?
この優しさを捨てたら、嫌われるんじゃないか?
自我は、それが観念だと、それが信念だと、それがエゴだと、私たちにわからないようにする。
そうするように、自分に呪文をかけた。解けない呪文をかけた。
でも、その解けない呪文を、試行錯誤していると、ロックが外れるようになっている。
私たちは、そのゲームに挑戦することを望んだ。
何回も、何十回も、数えきれないくらい挑んだ。
この呪文は、人間意識では、解けないしくみになっている。
本当の自分とつながることで、ヒントが見えてくる。
胸のが、アンテナ。羅針盤。
胸のの感覚をつかむのには、学歴はいらない。
お金もいらない。
優しさも必要ない。
ひたすら意識を、胸に。
胸に違和感を感じたら、無視しない。
何を伝えたいのか?
絶対に、ごまかしは効かない。
絶対に、嘘はばれる。
絶対に、中途半端では、その違和感は消えない。
そんな事を繰り返すことで、心も体も軽くなっていく。
自分の周りにいる人やモノ全てが、私(あなた)を目覚めさせるために存在していることがわかってくる。
私たちは、『愛の中にいる』 と、頭ではなく、理屈ではなく、そうでなければならないではなく、
そういう風に考えなければならないのではなく、『愛の中にいる』 と、実感する。
この『愛』は、恋愛とか、愛情とか、そういう感情ではなく、巨大な『愛』と言うドームの中に自分がいると言う感覚。
自我を最大限に生かしていた時に失うことを恐れていた、お金、仕事、人間関係、愛情、存在価値等々は、私の前にあり、もがいてもがいて掴みにいくモノだと思っていたモノが、私の世界に溶け込んでしまった。
ただ、私はいつでも自我に戻ってしまう位置にいる。
どんな風に吹かれようが、腰をどっしりと据え、足を地につけ、微動だにしないスピリット意識へ意識を持ち続ける。
自分の感覚に意識を集中する。
そこから得たことを、行動に移す。
考えるという、思考に隙間を与えない。
ただ、ただ、スピリット意識と調和する行動をとる。