私が、私であると言う確信は、記憶の中にしか存在しない。
私がいつ、どんな両親から生まれ、どこに住んでいて、誰と友達になり、どんな所で働き、誰と結婚し、今に至っているのか?
それを知るのは、記憶の中にしかない。
父は、元気になり退院も決まった。
私は毎日夕方、父に面会し、毎日父に言う。
「腸が悪くなって、手術して、だから入院してるんだよ。」
父にとって、その説明は、毎回初めて聞くこと。
父にとって、イレウスを起こしたことも、手術したことも、何で今ここにこうやっているのかも全て記憶にないこと。
なぜここにいるのかわからないけれど、ここにいなければならないようだからここにいる。
そんな父が教えてくれた。
私を創っているのは、記憶なんだ。 と。
私は私と24時間365日付き合っている記憶がある。
その記憶の中に、誰か他の人と会って話しをした私の記憶と、その人との記憶が一致した時、私はその人の中に存在し、その人は私の中に存在する。
でも、父は父で、父にとっての、24時間365日の記憶がある。
父の記憶と私の記憶が一致しない時、私の中に父は存在しても、父の中に私は存在しない。
腹が立って、イライラして、自分の中の感情を、こねくり回されたとしても、その出来事の意味に気づいた時、一瞬にしてその出来事が、感謝に変わってしまう。
その人との嫌な関係が、一瞬にして感謝すべき人物へと記憶が書き換えられる。
私は、自分の観える世界を、自分の創造したいように創造できる。