私が、呼び起こせる記憶は、何歳からだろう。

 

あぁ、思い出した。

 

私が、3歳頃で、兄が6歳くらいの時、家の近くにあった小さなお店にピーナッツを買いに行った記憶。

兄は、家のどこかにあった1円玉を握りしめ、私の手を引いて、2人で歩いてそのお店に向かってた。

そのお店は、豆腐やちくわなんかのちょっとしたおかずや、お菓子や文房具も置いてた。

そこの店主は、みんなから「あきちゃん」と呼ばれてて、その店に行くとき、「あきちゃんとこへ行こう」そう言っていた。

 

1円でピーナッツ、2つが買えた。

1つずつ食べた。

そんな時代があった。

兄は、そんな記憶、とっくに忘れてるんだろうな。

 

私が何でその記憶を思い出せるのか?

それは、兄が私の手を握って歩いてくれたことが、何故かとても嬉しかった。

 

今思えば、別に兄は1人でお店に行ってピーナッツを買えば、2個食べれたのにね。

そういうもんなんだろうね。照れ

 

 

 

私たちは、この体験したことに感情がくっつくと、忘れられない記憶として残る。

 

 

もしかしたら本当は、この記憶は間違いで、2人が家の中であまりにもやかましく喧嘩をしているので、それを止めるために父か母か誰かが、兄に1円玉を持たせて、店におやつを買いに行かせて、兄は嫌々ながらに私を連れて行ったのかもしれない。

 

でも、私の記憶は、「嬉しかった出来事」として残っている。

 

 

 

私たちは、その出来事を、どう捉えたかで、くっついた感情をいくらでも変えることができる。

 

 

 

両親が、いつも兄の事は褒めて、私の事はバカにしていた。

と言う記憶は、

実のところ、両親はただ話しをしていただけで、兄の事を褒めてもおらず、私の事をバカにしていたわけでもなかったかもしれない。

 

 

記憶と言うモノは、自分の捉え方が、そう捉えたことによって感情がくっついた。

 

 

もともと、私が観ている世界は、全てフラットの状態。

ただ、そこにあるだけ。

 

 

赤い車が走り、男性や女性が歩き、両親が話しをし、子犬がはしゃいでいる。

その場面があるだけ。

 

 

でも、私は思う。

 

 

あの赤い車は、カッコいいな。

あの男性と女性は不倫関係かな?

両親は、何を親密に話してるんだろう?

子犬は、可愛いな。

 

 

そして、

 

 

赤色以外の車なんて、乗りたくもない。

不倫なんて、絶対にしてはいけないことだ。

両親は、お金がないことを話してるんだろうか?

子犬の時は可愛いけど、大きくなったら嫌だな。

 

 

やがて私は、自分のものさしで判断をし始める。

 

 

あれは良くて、これは悪い。

これは正しいけど、あれは間違ってる。

それは正義だけど、これは悪だ。

 

 

自分が生きてきた環境の中で体験してきたことが、記憶となって残っていく。

そして、いつしかジャッジをしていく。

 

 

 

私が正しくて、間違っているのは、あなた。

あなたが間違っているんだから、私の言うように正しくなりなさいよ。

 

喧嘩が始まる。

イライラが始まり、ストレスとなり、毎日の生活が重くなる。

眠れなくなり、食欲がなくなり、体調不良になり、意欲が無くなり、集中力がなくなる。

 

 

 

このジャッジフラットに変える。

 

『外す』とは、相手の考えを受け入れるためとか、自分が正しいと思い込んでいたことを反省するためにとか、そういうことの為にしていることではなく、どちらにも偏らない、ゼロの状態に戻す為にする。元々私たちは、ゼロの状態。そこへ色んなモノをくっつけてしまったことで、偏りができてしまった。それが歪となり、私たちの心や体に重さをつけてしまう。

 

逆に、心や体に重たさを感じたら、それは愛図

 

自分は、何をジャッジしているのか、しっかり観るタイミング

そして、元の自分に戻っていく。