私たちは、さまざまな愛の形を体験してきた。

 

 

この世に生まれて、両親の愛、兄弟姉妹の愛、家族の愛、親戚の愛。

 

友達の愛、恩師の愛。

 

上司の愛、同僚の愛、知人の愛、親友の愛。

 

恋人の愛、夫婦の愛、子どもへの愛、義父母への愛。

 

赤の他人からの愛、本や、テレビや映画からの愛。

 

動物に対する愛、植物に対する愛、モノに対する愛。

 

自然に対する愛、宇宙に対する愛・・・

 

さまざまな愛を感じてきた。

 

 

そして、愛を得られなかったことによって、愛して欲しいと言う愛。

 

 

 

 

でも、自分自身への愛は、どうだろうか?

 

逆に、自分自身への愛は、どうやって感じることができるのだろうか?

 

 

 

自分以外の人への愛は、言葉や態度で表現できる。

ペットの犬やネコには、撫でてあげたり、抱っこしたり・・・

モノに対しても、大切なモノは大切にする。

 

でも、自分自身を愛しているという表現はどうやって表しているのだろうか?

 

 

 

「わがままを言ってはいけない」と言う観念の奥には

「わがままを言っては、愛されないよ。」と言う、条件付けの愛が存在する。

 

「愛されたければ、わがままを言わないこと。」

 

「わがままを言う自分は、愛せない。」

 

 

 

私たちスピリットは、こんな条件なんて持ってはいない。

 

これは、生まれて育った記憶の中に存在するだけのモノ。

無意識のうちに、自分自身に呪文をかけただけ。

 

『愛』に条件なんていらない。

 

この条件を外していけば、『愛』しか残らない。

 

 

 

自分自身の『愛』に気づかずにいると、それが外の世界に現れる。

 

仕事で疲れて帰った自分を癒すためにと買った植物が、いつのまにか水もやらなくなり、枯れてしまっている。

 

残業で疲れて、ご飯も作る気にもなれず、コンビニに入って、

「これでいいや」

そう、心の中でつぶやきながら弁当を買う。

コンビニの弁当が悪いとかそういうことではなく、その弁当が美味しそうで食べたくて買ったのならいいけれど、「これでいいや」と思って買った弁当は、あなた自身を大切にしているとは思えない。

 

 

 

自分自身を愛している人は、自分以外の人やモノも大切にし、愛おしく思う。

そしてただ、自分がそこにいるだけで、満足感を感じることができる。

胸を中心に、肩や背中、お腹もホワホワと温かく、小さなワクワクの振動がずっと響いていて、

『今』に生きていると実感する。

 

 

私たちは、『愛』そのもの。

どんな外の世界を観ようとも、どんな情報がいきかおうとも、

この『愛』は、揺らがない。

 

 

 

 

 

 

今日も少しの時間でしたが、父に面会してきました。

夕食を食べた後でしたが、自分で全量食べたと看護師さんが教えてくれました。

点滴をしながらですが、リハビリ室で歩行器を使って少し歩いているようです。

そうやって歩いたことは、覚えていませんけどねてへぺろ

 

「今から、娘を駅に迎えに行かないといけないから、帰るね。明日また来るわ。」

私がそう言うと父が、


「もう、来てもらわんでもええわさ。」

と、ニヤニヤしながら、看護師さんにカッコつけるように、そう言ってきた。

 

このクソジジイビックリマーク 明日行ったら、しばいたるムカムカ