例えば、
自分の知人数人と、1つの部屋の中でテーブルを囲んで、おしゃべりを楽しんでいたとする。
すると突然、ドアが開いて、服はボロボロ、くさい臭いがして、髪もいつから洗っていないかわからないようなボサボサ頭で、顔も汚れ、歯は抜け、よだれを垂らしているような、そんな人が私たちの部屋に急に入ってきて、真新しい封の開いていないお茶のペットボトルを上げようと私たちに差し出してきたとしたら、あなたはそのお茶をもらえるだろうか?
お茶をもらうどころか、多分、みんなその場から逃げ出してしまうかもしれない。
でも、もしその人が部屋に入ってきた瞬間、大地震が起きて、私たちはその部屋に閉じ込められて、食料も水も手に入らない状態になったとき、その汚れたボロボロの人が、私たちにお茶を差し出してきたとしたら?
多分、なんて良い人なんだろうと、お茶を頂くのではないでしょうか。
私たちは、これと同じくらい、劇的に自分の観える世界を変えることができます。
日常の生活の中で、自分にとって嫌な出来事が起きたり、嫌な事を言われたとしても、
それは、自分が目覚める為に、自分が設定したシナリオ(創造)であり、そのタイミングで外すべきモノであるとわかり外すことができると、一気に場面が変換されます。
こちらが冗談で言ったことを、相手が本気にして怒ってきたとしても、
意図して外せば、
「え? 今、冗談で言ったんだよ。」
そう言った途端、
「なんだ、そうだったの? でさぁ~・・・」と、
ついさっきの出来事がまるで無かったかのように変換される。
この体験をすると、パラレルワールドへ移動したんだろうなと感じる。
なにせ、今観ていた世界が、全く変わってしまうのだから。
別に、日本にいて、急にアメリカに移動したとか、今、目の前にいた人が急に10歳若くなったとかそういうことではなく、景色はそのままなのに、グンッ!と世界が変わったと感じる。
これが起こった時、本当に自分が観ている世界は、自分が創造したんだと思わずにはいられない。
誰かのせいにしているより、自分が創造した世界を変えることの方がどれだけ簡単か。
これは、自分の都合の良いように変えようとする世界ではない。
どんなふうに変換されるのかは、何もわからない。
だから面白いとも言える。
常に意識は、自分中心に向ける。
自己中の話しではなく、
嫌な出来事が起こったと言うのは、外すべきモノを私が持っているという愛図。
だから、外す。
これをしながら、自分の望む世界を創造する。
この時、具体的に〇〇になりたいと、固有名詞を使わない。
〇〇と言うのは、とても限定されたモノで、それ以外はダメな状態になってしまう。
結果的に、自分に制限をかけることになるので、
そこに意識を向けるのではなく、
〇〇になったことで、きっと自分が感じたい感情があるはず。
逆に言えば、その感情を感じたいから、〇〇になりたいと思っているはず。
それに、〇〇になったところで、自分の望む世界になるとは限らない。
この世界を創造している自分が、〇〇と言う限定したモノだけにフォーカスするなんて、
もったいなくない?
自分の望む世界にフォーカスすれば、その世界に合うような、もしかしたら今までこの世に存在しなかった仕事が閃くかもしれない。
具体的なモノでなくても、閃いたことを実行していけば、具現化できる。
自分の望む世界はどんな世界?