「来週から、〇〇って言う所に1ヶ月出張に行ってくれない?」

 

選択の自由があるような言い回しでの決定。

 

 

私は思う。

 

え~チュー 〇〇って、あそこでしょう?

嫌だよなぁ~

遠いしさぁ~、事務所狭いし、不便だし。

周りにお店もないし、何にもない・・・

え~、行かなきゃだめぇ?

 

そりゃあさ、私が行くのが一番いいんだと思うよぉ~

独身だしさぁ、身軽だしさぁ、慣れてるしさぁ、さぁ、さぁ、さぁ・・・

家に帰って、お風呂に入っていたら

 

なんだか、行っても行かなくても、どちらでもいいかぁ~

そう思ったら、抵抗がなくなって、ゆっくり眠れた。

 

 

 

次の日、出勤すると上司が

 

「おはようさん!昨日〇〇へ出張してって言ったけど、そこの仕事が△△の場所ですることになったもんだから、〇〇じゃなくて、△△へ行ってくれる?」

 

え~、いいのぉ~おねがい そこへ行っていいのぉ~

海はあるし、親友はいるし、毎日会えるじゃん!

 

「ハイ!行ってきま~す!」

 

 

 

私たちは、一瞬一瞬、選択の連続。

その選択の中には、選択の余地もない選択もある。

 

でも、私の経験上だけど、

この、選択の余地がない選択に対して、投げ出した「どっちでもいいや!」ではなく

心がゆるんで「どっちでもいいやニコニコと、抵抗がなくなった時、

翌日、別の展開が待っていることが往々にしてある。

それも、翌日の展開の方が、自分にとってとても良くて、誰も困らない。

そんな展開になる。

 

こういう時、映画の画面が一気に変わったような、ドラマの展開が一気に変わったような

そんな気分になる。

 

そして、その新しい展開に対して

「へぇ~、私、こっちに行くんだぁ~おねがい

と、私が選択しなくても、そっちへ進むようになっているような気分になる。

 

 

 

「私は、絶対にこれになるんだ!」

そう、ガチガチに決心して選択するより、

 

そうなってもいいし、そうならなくてもいい。

 

そんなふうに、どちらにでも行ける私になっていたら、

 

オールのない小さな船に乗り、小川のせせらぎを聞きながら、

川の流れにまかせて、ただ私は、景色を楽しむ私になっている。