私たちは、『わらしべ君』で良かったんだ。

 

わらしべ君』のように、『観音様』に言われた事を信じて歩いて行けば良かったんだ。

 

 

 

観音様』は、『本当の自分』のこと。

 

 

 

 ありませんか?こんな経験。

 

「あ~、あの時このままでは、やばいなって思ったんだよな~ショボーン

 

「やっぱり、こっち選んどきゃあ良かったんだぁ~えーん

 

 

 

 『本当の自分』を信じずに、理性や生きてきた中で得た情報や欲を総動員させて、選んだ結果がうまくいかなかった。

そんな経験。

 

 

 私は、幸太郎から母の日のカーネーションをもらった。

 

もし、「もう、お墓には何度も行ってるし、花も次に行くとき買いに行こう。」と思っていたら・・・

もし、「ケトーのような花って言ってたから、オレンジだけどケトーを買おう。」と思っていたら・・

もし、「遺影を持って行くなんてめんどくさいなぁ」と思っていたら・・・

 

「買うならこれだよな。」

私は、その私に従った。

 

 この「買うならこれだよな。」が『本当の自分

 

 

 自分を疑わず、自分のひらめきを信じた。

 

その結果、カーネーションをもらえた。

 

 

 

 『観音様』である『本当の自分』は、答えは教えてくれない。

ヒントが与えられ、それに『気づく』ことができるかどうか。

 

 直ぐに答えを教えてもらうのは、隣の友達から答えを教えてもらって100点取ったような感じで、喜びも感動も何もない。

 

 でも、自分が『気づいて』答えを導き出したとき、それは、最高のプレゼントになる。プレゼント

感動を超えた感動。喜びを超越して表現できないくらいの喜びを体験する。

 

 

 

 この『気づき』を気づきにくくしているのが、『観念』や『観念』に基づいて得た理性や欲

 

 

 「好きな事が仕事になったら、どんなにいいだろう。」

そう思うのに、そうできないのは、「お金」

生活できるかどうかと言う、「心配」「不安」

 

 

 

 わらしべ君がもし、「こんな何の得にもならない、わらなんかいらないや!」

そう言って、わらを捨てていたら長者にはならなかった。

 

 ただ、ここで言う『長者』とは、お金持ちになったと言うことを言っているわけではない。

お金持ちになったと伝えないと、誰もこの話しを聞こうとしないから、結末を『長者』にしただけで、本当に伝えたかったのは

 

『豊かな心』

 

だと思う。