<secret letter・第11章 愛人>

僕は重い足取りでインターホンまで辿りつくと、

その画面に映し出されている人物に目を見張った。

どうして?

郁子の手紙のせいで変に喉が乾いている。

声が少し枯れていたが僕は「はい」とだけ返事してみた。

本当は誰にも逢い
たくはなかった。

逢ってはいけないとも思っていた。

でも、なぜだろう。予期せぬ来訪者が何かを連れてきそうな気がしたのである。

インターホン越しに「今、開けます」とぶっきらぼうに伝えると

玄関でサンダルを引っ掛け鍵を開ける。

「どうしたんですか?先生」

ガラッと開けて目の前に立っていたのは、郁子を診てくれていた病院の医師だった。

医師は僕を見て驚いた顔をしたのだけれど、

次の瞬間にはその曇った表情を打ち消したのだった。

「いえ・・・あなたにお渡ししたいものがあって・・・」

「僕に?」

「えぇ。あなたに・・・」

医師はそう答えると鞄の中から封筒をひとつ取り出して僕の前に差し出したのだった。

「なんですか?これは・・・」

目を丸くして医師にこの封筒の中身を訊ねると、医師は

「中を見てくれれば判ります・・・」

「何が入ってるんです?」

怪訝そうに僕は呟くと、その封筒の文字を見て凍りついてしまった。

「郁子・・・」

そう僕が呟くと、目の前に立っていた医師が今までとは真逆の表情を作り上げていた。

「死んだ妻の字・・・今でも思いだせるんですか?愛してなかったのに?」

「え・・・・?」

何を言われたのか判らなかった。

空耳かと思ったその声は、やはり目の前の医師の口から漏れたものだった。

「いや・・・あなたは愛していたのかもしれませんね。でも、妻である郁子はあなたのことを愛してはいなかった・・・・」

「何を言って・・・」

「じゃ、あなたは郁子が本当にあなたのことを愛しているとでも、本当に思っているんですか?」

まるで自分の言っていることの方が正しいとでも言いたげな医師の名前は高見恭一という。

郁子が病気になり、ほんの短いあいだ担当医になっただけの男に何が判るというのだろうか。

「あんた、いったい何なんだ」

吐き捨てるように言った僕に高見は嘲るように大きな声で笑う。

「本当に判らないんですか?まったく?本当に?」

何度も念を押して訊いてくる高見に、

僕はただ睨むことしかできなかった。

「郁子は僕の事をちゃんと最期まで愛してくれていました。そうでなきゃ離婚していたと思いますよ」

最初に切り札のカードを切ったのは僕の方だった。

そして、その言葉に反応して間髪入れずに高見は、

「あなたが浮気をしていたにもかかわらず、それを許し耐えていたからですか?」

と、冷笑のまま僕を釘付けにした。

「・・・・」

僕は黙ったままでいると高見はさらにこう付け加えてくる。

「どうしてそれを、みたいな顔しないでください。僕が知っていて当たり前のことなんですから」

いやらしい笑みに顔を変化させて、そのまま高見は続けてこうも言ってきた。

「今・・・考えているでしょう?僕と郁子との関係を・・・」

黙ったまま頷くこともできずにいる僕に、

高見は背広の内ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。

くわえた煙草をゆっくりと吸い込み、うまそうな顔をして大きく吐きだした。

「一般論だが、妻が夫でもない男に家の内情を細かく話す。しかも自分が一番つらい内容を話している。そう言えば察しはつくんじゃないのか?つまり、僕と郁子はそういう関係だってこと。ご理解いただけましたか?」

高見は言い切った後、こんなこと言わなきゃ判んないのかという顔を僕に浴びせてくる。

その言葉と顔に逆上した僕は悪あがきをしてしまっていた。

「そんなこと、あんたが勝手に言ってるだけで本当かどうかわからないだろう!」

自分で言ってみて虚しいことだとは思うのだけれど、

真実、郁子はもう既に死んでしまっているのだし、

この男が嘘を言っていても誰も判らないのだから、

あえて僕はこう言ってみたのだった。

でも、高見はそんなことさえも払拭するような切り札を持っていたのだった。

「それなら・・・郁子の身体の黒子の場所でも言い当てましょうか?背中にある三つ並んだやつとか、形のいい乳房の下にあるやつとか・・・?どうです?」

「そんなの、それだって医者のあんたなら見る機会は幾らでもあるじゃないか!」

激昂した僕は苛立ちを隠さず怒りも全面に押し出して応戦する。

だが、そんな僕の態度に目の前の高見はたじろぐ素振りを見せない。

「確かにそうだ。でも太股の内側にある痣はどうだ?いくら内科医でも関係のないところは診ないよ。うっすらと桜の花びらを散らしたような痣は実にセクシーだった。まるで郁子の中から溢れ出てきた花びらみたいだったろう?事実、郁子に自分の身体の中で何処が一番気に入っているかって訊いたら、その痣のことを言っていたよ」

自分が我慢して聞いていることができるなんて思わなかった。

この男が・・・郁子の男?そんな莫迦な!

頭で否定してみても、この男の言う事は本当だった。

僕自身も郁子の太股の痣は憶えているものだったから。

一年前に死んだ妻の身体を想い浮かべて

僕は苦虫をかみつぶしたような顔になっているのだろう。

高見はそんな顔をしている僕をせせら笑っている。

「どうだ?郁子のことをあんたはまったく判っていなかったんだよ。本当に妻が夫を愛しているのなら浮気をする旦那のことなんか許すと思うのか?自分も浮気をしていたから夫の浮気にも目を瞑り暮らしてきたんだよ。とうの昔に郁子の心はあんたから離れていたのさ。そんなことも知らずに七年間も愛人と暮らしてきて、郁子が病気になったから愛人と別れたい?そんな事が許されるとでも思っていたのか、あんたは!そんなに深く愛されているとでも思ったのかよ。逆なんだよ。郁子は愛していたんじゃなくて、ずっと憎んでたんだよ。あんたのことも愛人のことも。だからあんたのことを嵌(は)めたのさ!」

「嵌めた・・・郁子が僕を?」

まくし立てられた言葉に自分の脳がついていってなかった。

郁子が何をして僕を嵌めたというのか・・・

とにかくこの男が郁子の男であることは理解できていた。

やはり、郁子には男がいたのだ・・・。

でも、今さらどうしようもないではないか・・・。

この男もきっと郁子が亡くなったすべての責任を僕に転嫁したいために現れたのだろう。

でも、仕方ないじゃないか。郁子は病気で死んだのだ。

もう戻ってくる事はない。

振りかざそうとした拳を、もう片方の手の平で包み込んで閉まった。

「郁子が何を僕に仕掛けたのかは知らない。でも、郁子が死んでから一年が経とうとしているのに、何も起きないぞ。とんだハッタリだったな」

「本当に起きてませんか?」

「!」

目を剥いた僕に高見はすべてを見通すような瞳の色をしてニヤリと笑っている。

「今の奥さん・・・こんなに大きな声で僕達が玄関で喋っているのに出てこないんですね?」

玄関の向こう側を透視しているんじゃないかと言わんばかりの台詞に僕は凍りついてしまっていた。

「恵子は出掛けているんだ」

まさか、こいつに昨夜の喧嘩のことを言うわけにはいかなかった。

「そうですか・・・じゃぁ、僕はここら辺で消えるとしましょう。僕はちゃんと届けましたよ。郁子からの遺書。一年掛けてあんたに届けてほしいっていうところに郁子の真意が隠されてるんだ。あぁ、新しい奥さんにも一言。元気な赤ちゃんを産んでくださいって伝えてくれ・・・」

「どうしてそれを!」

食らいつこうとした僕の腕を一秒早く高見の腕が巻きついてくる。

僕だって昨日知ったばかりのことを、どうしてこの男が知っているのか・・・

まさか・・・。まさか・・・。

まさか、こいつは郁子だけじゃなく恵子の事も?

そう過(よ)ぎった不安を高見は読み取ったらしい。

「あんたと一緒にしないでくれないか?僕が愛しているのは郁子だけだ。僕は医者だぜ。産婦人科に診察に来ている奥さんを見つけて喜び勇んでこの手紙を持って現れたんだよ。早く、手紙を読んで地獄を見たらどうだ?」

巻きついた腕を無理やり放して高見は吐き捨てるように言って背中を向ける。

「・・・・地獄?・・・・・」

その台詞を聞いた後で僕は心の中で反芻してみせる。

地獄なら・・・もう見たさ。

言葉をのみ込んで僕は去っていった高見の背中に一瞥を返すと、

そのまま自分の家の中に姿を隠していた。

何事もなかったように家の中は静まりかえっている。

テレビの音でもあれば生活感があるのかもしれないが、

今から郁子の手紙を読もうとしているのにそれは邪魔だろうと思い、

習慣になっているテレビの電源をつける手を止めた。

僕はあの男から手渡された封筒に目を落とした。

桃色の封筒には僕の名前が書かれている。

その封を開けようとして雑念を振り払おうとするのだが、

この短い時間の中で詰め込まれた情報は僕の心の中を乱していた。

高見恭一。郁子の愛人。何年前から?郁子は僕の事を愛していなかった?

そして・・・この封筒の中には真実が隠されているという。

郁子が僕を嵌めただなんて、そんな嘘。

吐(つ)くにももっとうまい具合に嘘を吐いたらいいのに。

この薄い封筒の中にどんな罠が隠されているというのだろうか。

僕は、ピリッと封筒の端を指先で破って中を取り出してみた。

桃色の封筒には桃色の便せん。

だが、しかし内容はそんな色に似つかわしくないことが隠されていた。
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第12章・終極へつづく