<secret letter・第8章 傷者>

妻が亡くなり、愛人・恵子が妻になり、

僕の中で一つの区切りをつけなければならないと思っていた頃、

またもや同じ状況に陥ってしまっていることに僕は舌打ちした。

同じ状況・・・。それは・・・。

僕と惠子の間に子供が生まれないということ。

それは至極当たり前のことだった。

郁子に生まれなかったものが惠子の中から生まれいずることはないのだ。

そんなことは最初から判っていたことなのに・・・

僕は惠子にそのことを打ち明けられずにいたのだった。

自尊心といおうか、虚栄心とでもいおうか

それらすべてが混ざりあった心を僕は持ってしまっていたのだと思う。

郁子に子供ができなかったのは、僕に問題があるのではなく・・・

郁子にあるのだと・・・郁子が産めない体なのだと恵子に告げていたのだ。

なぜなら・・・あの日、告知された日に郁子から見せられた瞳の色を、

もう二度と見たくないと思ってしまったから。

しかも、今回は子供ができない原因が自分にあることを知っているのだし、

どんな風に嘘をついても自分が汚れることがない事を知っている。

『そんなにすぐに欲しがらなくても授かりものなんだから・・・』

そう嘘を吐いて郁子に見せなかった優しさで惠子を励ますこともできる。

今度の結婚生活は壊れないように、壊さないようにしなければならない。

そう気をつけて生きていたというのに・・・

どうしてこんな事になってしまったのだろう。

僕は一つ一つ考える事もせずに今までを生きてきたから、

郁子が何を考え、そして惠子が何を考えていたのか気にも留めなかったのだろう。

だから、こんな事になってしまった。

「郁子に子供ができなかったのは・・・・」

そろそろ限界かと、恵子に告白しそうになった時、

「いいの。それ以上言わなくても・・・」

悲しそうに恵子は項垂れ、柔らかい微笑を浮かべている。

そうか・・・言わなくてもいいか・・・。

なら・・・それなら楽でいい。

すべてを語らなくても理解してくれているのなら、こんなに心が楽な事はない。

僕はそう思いこんで、恵子に何も話さずその場を凌いだのである。

そして、恵子との生活もそろそろ一年を迎えようとしていた頃、

僕が仕事から帰ってくると、惠子が嬉しそうな顔をして、

「あなた、嬉しいニュースがあるのよ」

そう笑って僕の首に顔を埋めて報告してくれたのであった。

嬉しいこと?

僕は絡みつかれた腕を愛おしそうに撫でながら恵子へと訊き返すと、

彼女は自分のお腹をさすりながら一言。

「できたの・・・・」

そう幸せそうな顔をしながら僕に甘えてきたのだった。

「できた?」

何が?

僕が声を詰まらせてゴクンと息をのみ込んだのを恵子は聞き逃したらしい。

平気な顔をして頷きながら、

「えぇ。赤ちゃんが・・・・」と笑っている。

僕の中で何かが弾け壊れていくのを感じた。

こめかみに鈍い痛みがはしり、

その痛みが頭の中全体に広がっていくのに時間はかからなかった。

そんなわけがない。そんなことがあってはいけない。

君に赤ん坊ができるわけがない。

たとえ、本当に君のお腹に赤ちゃんができたとしても・・・・

それは僕の子供では決してない!

恵子にまくしたてたい思いをグッと堪えて、

そのまま惠子の体をそっとソファーへと座らせたのだった。

「間違いじゃないのか?大丈夫なのか?」

世の中の夫が妊娠した妻を疑って聞くわけがない事を並べる僕に

恵子は桃色に染めた頬をさらに紅くしながら

「やだ、検査薬でチェクしたら陽性だったのよ。急いでお医者様に行ったら、間違いないって言われたの!」

両手を合わせて喜び、自分の腹の中にいる子供を愛おしそうに見つめている。

そして、下腹部をさすりながら、

「嫌ですね、パパは・・・君がお腹にいる事を信じてくれませんよ」

と満面の笑みで繰り返しているのだった。

何を莫迦なことを言っているのか。

腹の中にいる赤ん坊が僕の子供ではない事は明確なのに、

どうして笑って喜びあわなければならないのか・・・・

この女は何一つ真実を知らないから、きっとこうして笑っていられるのだ。

僕は知っているというのに、君のお腹の子供が僕の子ではないということを・・・。

君が浮気をして・・・僕の子供ではない者を、

僕の子供として産み落とそうとしていることを・・・・

郁子から僕を頼むと言われておきながら僕を裏切り、

僕ではない男を心の中に閉じ込めている。

浮気をしつつも、僕に対して嘘の笑顔を浮かべて、

そしてずっとこれからも僕を欺き、嘘を吐き続けようとしていることも。

それらすべての事を一度に思ってしまったら、

僕の頭の中は真っ白になってしまっていた。

激情の波が僕を襲い、拳は震え奥歯は憤りでガチガチになっている。

感情の爆発が間近であることは明白で、

その僕の顔を不思議そうに見ている惠子の顔さえも

僕は憎くて仕方なくなってしまっていた。

喉の奥から込み上がってくる吐き気と、

愛する女に裏切られたという、どうしようもない怒りが僕に言葉を与えていた。

「誰の子?」

そう冷たく言い切るのに時間がかかり、

恵子は最初、何を言われたのか判らないといったような表情をしていた。

「何を言っているの?」

とぼけた顔をしてみせる惠子に、性根の悪さが浮き彫りになっていく。

「もう判っているんだ。本当の事を言ったらどうだ?」

そう吐き捨てるように言った僕に、なおも恵子は不思議そうに顔を変えていく。

「あなたの子よ」

「嘘だ!」

激昂した声が外に漏れてもかまわなかった。

震える唇の片方の端を微かに上げて、僕は惠子に真実を告げていく。

「僕は知っているんだ・・・・僕は・・・子供ができないんだよ」

僕が吐きだした声を全身で受け取った恵子は大きく瞳を開かせていく。

その黒い瞳に僕は吸い込まれているかのように一歩ずつ歩み寄っていく。

そして、長い夜が始まっていった。
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第9章・自失へつづく