<secret letter・第七章 対峙>

「はじめまして・・・」

「こちらこそ、はじめまして」

そう挨拶を交わして女達は互いの顔を見つめあっていた。

その間に立たされた僕は居心地の悪さに身じろぎをする。

それはそうだろう。

妻と愛人の面通しに、どうして平気な顔をしていられようか。

「あなたに逢うのは・・・、いえ・・・きっとこれから先あなたに逢う事は、もうないと思いますが・・・あなたにお願いしたい事があって・・・」

長い沈黙のあと妻が独り言のように言葉を発した。

溜めに溜めた思いをぶつけるのかと思っていたのに、

案外静かな声に僕は驚いたのだった。

この声を受けても愛人の恵子は黙ったままである。

「・・・・」

きっと妻からくる言葉を一言一句逃すまいとしているのかもしれなかった。

それとも、妻の命が短い事を知っているから、

寿命が長い自分の立場が上のような、そんな感覚もあるのかもしれなかった。

だから恵子はきっと恐れる事もなく妻の前に立つことができているのだろう。

普通だったら愛人が妻の前に立つことなど、しかも正々堂々と立っているなんて

信じられないことだと思う。

そしてその傍で二人の動向を窺っている夫がいるなど

部屋の向こう側にいるナースステーションの看護師達は、きっと知らない。

病室の切り取ったように見える窓から

水色の空とふわりと浮かぶ雲を見てから妻は・・・、

「あなたにお願いしたいことというのは・・・」と再度声を絞り出していく。

「主人のことなの・・・」

「え・・・・」

唐突に自分のことを切り出された僕は、壁に背中を預けていたのに

思わず棒立ちになってしまっていた。

思いもしない妻の言葉。

いま、僕の事を愛人に頼むって言ったのか?

「それが、どういうことか判って言っているんですか?」

愛人は少し眉根を上げただけで平気な顔をして、

妻の声が真実なものなのか見極めようとしていた。

「あなたが亡くなった後、私と和真さんが一緒になってもいいって言っているのと一緒のことなんですよ」

「えぇ、そうよ」

「一番私に頼みたくないんじゃないですか?それなのに、どうして?」

「あなたなら、主人を任せる事ができると思ったから・・・」

愛人の言葉に激昂することなく、答えていく妻・郁子。

その芯の強さが次の言葉となって表れていた。

「この七年間、あなたを怨んだ時もありました。でも仕方ないんだと・・・主人を繋ぎ止める事ができない自分が悪いのだからと、そう諦めました」

ここまでを言うと決心したように深い溜息を吐いた妻は

もう一度、愛人の顔を見つめ返したのだった。

「同じ人を愛したあなたには、私の事も理解できるんじゃないかと思って・・・。七年間、あなたは待ち続ける事ができたのだし、私の存在を知ってからも主人と生きる事を選択してくれた。そんな、あなただから主人の事をお願いできると思ったんです。たとえば・・・私が何も病気を患っていなかったとしたら、どうです?あなた達は別れようとは考えなかったと思います。今まで私の事を蚊帳の外にしてきたんですもの、これから先もそうするに決まっていたでしょう。私の命が短いと知った時、主人はあなたと別れると言いました。でもそれを思い留めさせることができたあなたは、やはり私と同じように主人を深く愛しているのだと判ったのです。私は半年後、長くて一年後にはこの世からいなくなるのです。そうなった時、中途半端な想いを持つ女に主人を渡すぐらいなら、あなたに託したほうがいいと思ってしまったんです。いけませんか?こんな答えじゃ・・・」

「・・・・・」

「七年間耐えたあなたに・・・これから・・・」

そう言って妻は、何とも言えない微笑を湛えたのだった。

僕は妻がどうしてここで微笑んだのか意味が判らなかった。

その意味は後から判ることになるのだが・・・

この時の僕は、単純に妻が僕の事を想って言っていてくれているのだと、

信じて疑わなかったのである。

愛人・恵子は長い不実の愛にやっと終止符を打てる事に対して安堵の息を漏らしていた。

「わかりました。彼の事・・・心配なさらないでください」

恵子は妻へと静かに微笑むと、僕の顔を見ながら軽く一度頷いてくる。

それはきっと僕にも同意を求めている頷きだったのだろう。

僕はまるで導かれているかのように、恵子の顔を見た後で妻の顔へと頷いたのだった。

それから僕たちは妻が死ぬまで、妙な三角関係を続けていったのである。

確かに、妻と愛人はあれから二度と顔をあわすことはなかった。

しかし、二人は互いの事をよく僕に訊くようになっていたのである。

「奥さん・・・大丈夫なの?ちゃんと診てあげてね」
「気分がすぐれないのなら、ちょっとでも外出できるといいのにね」
「このお店の洋菓子、美味しいのよ。持って行ってあげて・・・」

以前は絶対にそんなことを口にしなかった恵子が妻に対して気遣っていた。

そして妻も・・・同じようなことを口にしているのだった。

「もう行ったらどう?彼女待ってるわ・・・」
「帰りに、○○茶店の珈琲を買って行ってあげて。ケーキにはあそこの珈琲豆が絶品なの。お願いね」
「彼女、誕生日はいつなの?ちゃんと贈り物をしてあげてね」

そんなことを言い合い何ヶ月が過ぎたある日、妻が・・・

「以前に頂いたお菓子のお礼に、これを彼女に渡してくださる?」

そう言って僕に差し出してきたものがあった。

それは妻が調子の良い時に病院の庭で見つけた四葉のクローバーだった。

看護師にでも頼んだのだろうか・・・ちゃんと押し花風になっており、

和紙に美しく貼られ仕上げられていた。

それは本の栞として使えるようになっていたのだ。

「これ・・・いいのか?」

渡された栞を見つめながら躊躇いがちに僕は妻の表情を窺ってみる。

すると妻は静かに頷き、

「いいのよ。もう私は充分幸せだから・・・今度は彼女が幸せにならなければ・・・・」

そう言って、この栞を恵子へと届けてほしいと頼んできたのだった。

「お願いね、あなた・・・」

「わかった。それなら届けるよ」

僕はそれを鞄へ仕舞うと、「明日また来るから」

そう言って妻の病室を後にしたのだった。

まさか、あれが永遠の別れになるとは思いもしなかった。

あんな短い時間が妻と持てた最期の時だというのだろうか?

それなら、なんて神様は意地悪なのだろう。

さよならも言ってない。ごめんも言ってない。ありがとうも言ってない。

そして何より、ずっと妻が疑っていた僕の本心さえも口にしていない。

ただの一言、「愛している」の言葉も口にしていない。

恵子といた夕方、妻はたった一人でこの世から去っていってしまった。

西の空、山の向こう側に落ちていく太陽。

空をオレンジ色に染めた夕日が眩しかったのを憶えている。

その夕日の中で僕は妻の最期が訪れたことを電話で聞いたのだ。

担当医師からだった。

あの日、僕に妻の病気を教えてくれた医師だった。

声が震えていた。

「今、奥様が・・・」

そう涙声で伝えられた妻の訃報は、僕を打ちのめすのに時間はかからなかった。

「そうですか・・・今から伺います」

短くそう言い終えたのも覚えていない程、僕は自分を見失ってしまっていた。

傍らで聞いていた惠子が口元を両の手の指で微かに抑え震わせている。

僕が涙を堪えて携帯を切った直後に見せたを顔。

震えながら喉の奥から生まれ出た言葉を聞いて恵子は泣き崩れた。

『郁子が逝ってしまった・・・』

たった、その一言で僕たちは寄り添い合い、抱き合って妻の死を抱えたのだ。

僕が泣くのは判るだろう。

でも愛人である恵子が涙を流すのは妙な気がした。

確かに僕たちは妙な三角関係だったと思う。

妻と僕と愛人と。

最初は絶対に憎み合っていた二人だった筈なのに、

いつの間にか妻は愛人に気遣いを見せ、恵子も妻を思うようになっていた。

まるで何年間も知り合いだった友人のように・・・

僕を間に挟み、女同士で交流していた。

たった数ヶ月だったのに、その日数が惠子に涙を流させていたのだ。

その涙がおさまるのを待って僕達は病院へと急ぐと、

そこにはもう二度と声を発しない妻が横たわっていた。

現実には起きてほしくなかった出来事。

でもいつかはやってきてしまう出来事。

それが僕たち二人には早かっただけのこと。

頭の中ではそう簡単に片付ける事ができても、

深い奥の方ではまだ郁子の死を受け入れられずにいたのだった。

そんな僕を支えるために恵子は僕の妻になり傍にいてくれている。

郁子が「お願いしたから」ではなくて、

義務だとか、背負った罪とか、けじめとかそんなんじゃなくて、

ただ純粋に恵子は僕の事を愛してくれているのだと思う。

だから恵子は傍にいてくれているのだ。

その愛に僕はこれから何を返していけばいいのだろう?

だが・・・

そう思っても、郁子がまだ心の中にいるのはどうしたらいいのだろう?

恵子が献身的に尽くしてくれる愛よりも、

郁子が残していった愛の方が重く、それを探してしまう僕は

どこに行き着いたらいいのだろう・・・・
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第八章・傷者へつづく